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かぜのうた

第15章 運命の疾風

屋上に出た私は、すぐに左に曲がった。そこには血の跡もまだ残っている。私が1時間くらい前に彩芽に供えたジュースも、たくさんのお花と一緒に残っている。でも、今の私はそんなのに構ってなんかいられない。不謹慎なのは分かっているけど、今の私の一番正直な気持ちなんだから仕方がない。ある一節だけが私の頭に閃いて、すっと消えていった。それは2学期に英語の授業中に余談で出てきた、シェークスピアの戯曲の一節だった。
…Love is blind…
勢い込んで時計塔の扉を開ける。目につくフロアには誰もいない。それなら上しかない。私はゆっくりと、自分の気持ちを落ち着けながら階段を上った。…誰かいる。窓辺でぼんやりと、景色を眺めている。もう夕日も沈んだ。窓辺にたった1つだけある影は、ただぼんやりと、外に見える山肌を眺めていた。
「ハヤ…」
私の一言で、その影は振り向いた。まるで、その言葉が止まった時を再び動かし始める呪文だったかのように。
「美寛…遅かったな」
その声は、他の誰が出すどんな声よりも温かかった。私は無性に泣きたくなった。ああ、なんてバカなんだろ、私って…。今まで、たった1つの殺人事件なんかにかまけて、こんな大事なことも忘れていた…。
「ハヤ!!」
私は知らない間に、疾風の胸の中に飛び込んでいた。疾風も数日前みたいにひどいことは言わない。ただ、私を受け止めてくれている。
「本当に、ゴメン…私、今日ね、ずっと…」
「分かってるよ」
「ううん、ハヤには分からない…私ね、今日ね、産まれて初めて、ハヤの事を忘れてた…。今まで、どんな時だって、片時も忘れたこと無かったの!いつでも、今頃ハヤは何してるかな、って、ずっと想ってた…それなのに、今日の私は…下んないことにしか頭が回らなくて…ハヤ…ハヤ!!ホントに…ゴメン…」
目から自然に、涙が溢れた。たぶん、止まらない。疾風に包まれている間は…。
「ハヤ…もう、私…これ以上…」
私は一度、疾風に預けていた体を戻した。疾風もそれにあわせてくれる。涙も少しだけ途切れた。疾風が手招きして、私はそれにただ流されて、窓辺へと足を進めた。急に、あの日のことが思い出されてきた。
「…ねぇ、ハヤ?あの時のこと、覚えてる?ほら、事件に出遭うほんのちょっぴり前だよ」
「…ん?どうしたの?」
「私にさ、言ってくれたよね?時計塔での約束を実現したいって言った私に、いいよ、って…」
私はそのときを思い出しながら、ちょっぴり甘い幻想に浸っていた。あの一言で、私は疾風の気持ちを確認したんだから…。その時。
「え?そんな事、言ってないよ?」
私は急に、心が震えた気がした。甘い幻想にヒビが入ったような気がした。
「え…?ウソ?じゃあ、あの時、ハヤは、本当に…」
意味ないよ、って言ったの?疾風は私の複雑な気持ちには全然触れようとしない。それどころか、もっとヒドイ一言を投げかけてきた。
「あの時は…俺、確か『意味ないよ』って言ったと思うけど?」
「え…じゃあ、じゃあ何であの時、別の入り口を通ってでも屋上に行こうって言ったの!?」
「え?ただ何が屋上の扉を塞いでたのか、って変に思っただけ」
何もいえなくなった。ただただ、足元から凍り付いていくような気がして、立ちすくんでいることしか出来なかった。…初めてだよ、こんなに、疾風のことが…信じられなくなったのは…。私の心の遠くから、疾風の、何だかいつもとは少し響きの違う声がする。
「美寛…俺があの時、意味ないよ、って言ったの…勘違いしてないか?」
「何…イヤ、怖い…ハヤ…ねぇ、お願い、言わないで!!」
私はうずくまった。心の中には恐怖しかなかった。そんな、私が疾風に嫌われてる?もし、もしも、そんなことが現実だったら、私…。さっきの遥の言葉が頭の中をよぎった。
「だって美寛ちゃん、『愛しい愛しいハヤくんにフラレたら、もう私、生きていけな〜い』んでしょ?」
怖い…怖い…イヤ…疾風に嫌われてるなんて、そんな事考えるだけで絶対イヤ…他のどんな嫌なことが起こってもいいから、それだけはイヤ…!!本当に、私、生きていけなくなるよ…もうこれ以上…1分だって、1秒だって!!お願い、神様…本当にいるなら、どうか今、私に…!
「ねぇ、美寛…?大丈夫?」
気がつくと私はまた泣いていた。こんなに泣いたのは初めてかもしれない。疾風は私の横にひざを立てて座り込んでいる。そして、今度は…疾風の方から、私を引き寄せる。
「美寛…美寛さ、1人で勝手に、悪い方悪い方に考えてないか?」
「…え?」
今の私には何も分からない。まして疾風の気持ちなんて、絶対分からない。
「どうせ美寛、俺がさっき『勘違いしてないか』って言ったのを、『俺は美寛のことを好きじゃない』みたいな方向に勘違いしたんだろ?」
「…違うの…?」
私はかすれた声で聞いた。その時、疾風は笑ってくれた。
「違うよ、俺が言いたかったのは美寛が『意味ない』って言葉の意味を勘違いしてないか、って言ったの」
「どう…違うの?」
「だから、『意味ない』っていうのは、当然そんなことする必要は無い…って意味だよ。でも美寛は、その理由を『俺が美寛のことを好きじゃないからだ』って、そう思ったんだろ?」
「だって、それ以外に意味がないじゃない!!」
ほとんど叫ぶような声だった。それでも疾風はたじろがない。私のことを、今までよりももっと強く、引き寄せてくれる。こんなに間近に、優しい疾風を…ううん、優しい人を…感じたのは、きっと産まれて初めて…。
「そう?もう1つあるだろ?」
「何が!?」
「そんなことする必要は無い。だって、俺と美寛はそんな願い事に頼らなくても永遠に結ばれているから」

時間が、止まった。疾風はずっと、私に微笑みかけてくれている。私は真顔で疾風を見つめた。動けなかった。疾風の言葉が、私の体の中を深いところまで駆け抜けていく。息も出来ない。ただ2つの目から、私のさっきまでの恐怖が、絶望が、痛みが、疑いが流れ出していくだけだった。あとにはそんなものなんて、何も残らない。私はただ、ひたすら泣いた。疾風にほんの一瞬でも疑いを抱いた自分が情けなかった。そんな気持ちを疾風に、これから一生持たないためにも、今は出来るだけ泣こう…。
どれくらい経ったか分からない。たぶん2分くらいなんだろうけど、私にとっては自分が1回死んで、また新しい自分として生まれ変わるくらいの時間がたった気がする。
「もう…平気?」
「うん…うん、大丈夫だよ…ハヤ…」
私は立ち上がって、埃を払った。目の前にいる疾風を改めて見つめる。疾風の白のブラウスはぐしゃぐしゃになっていた。
「ごめんな…こんなに、待たせて」
「ううん、いいの…私こそ、ゴメン…今日、こんなに待たせちゃって」
二人は窓辺から離れる。
「ね、ハヤ…あの、さ」
「どうした?」
「その〜…いつから、私のこと、本気で好きになってくれた?」
そう聞くと、疾風は近くの壁にもたれかかった。あまり明るくはない照明と、薄い月明かりが疾風の顔を照らす。いつもよりもちょっぴり、疾風がかっこよく見えた。
「最初はね…分からなかった。美寛が俺のこと、本当に好きなのか、それとも…幼なじみって言うだけの、ただの腐れ縁なのかさ…。でも、これを見たときに、ああ、美寛は本気なんだな、って」
疾風はポケットから何かを取り出した。手のひらに収まっている、かなり小さなものだ。
「ん?なになに?」
最初は手元が暗くてよく見えなかった。でも、それが何かはっきり悟った瞬間に、私の顔は真っ赤になっていた。
「ウソ…」
プリクラ…。女友達だけで遊びに行ったときに、冗談で1人ずつ撮ったやつだ。「こんなの彼氏に見られたら最悪だよね〜」とか言ってた翌日、彩芽が私の撮ったやつを疾風の通学カバンに…。思い出すうちに、どんどん顔は赤く染まっていく。
「バ、バカ!!何でこんなの持ってるのよ!!」
「ん?彩芽が内緒でくれたやつ。最初は興味ないって言って返そうと思ったんだけどさ…その…」
疾風の顔もいつもより赤くなっていた。まるで、2人だけが夕焼けに取り残されたみたい…。
「この美寛…いつもより、綺麗だったからさ…」
綺麗。それは、私が言われたくてずっと待っていた言葉だった。カワイイとは言われても、綺麗って言われたことは今まで一度もなかった。今、この瞬間にその言葉を口にしてくれた疾風…。それだけで、私には十分だった。思わずまた、涙ぐんだ。でも、もう涙は流さない。喜びや嬉しさや希望や愛情という気持ちを、涙なんて無駄なものにしたくない。
「ねぇ、美寛?もし美寛がいいなら…」
「ん?なに、ハヤ…?」
そう自分で言っておいて、私は急いで言い直した。もう私と疾風の関係は「幼なじみ」なんかじゃない。
「ううん、もう、違うね…。な〜に、疾風?」
「今、俺の目の前で…このポーズ、してくれる?」
私は何も言わなかった。ただ何も言わずに、プリクラの中の私と同じ格好をした。
その瞬間に、私は今までに一度だって感じたことのない、甘美で優しい風に包まれた。疾風という名の風に。


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