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かぜのうた

第20章 破局の嘯風

私は、時計塔の中で凍り付いていた。こんなに身近な人が人殺しをする感覚なんて、分からない。分かりたくもない。きっと疾風だって同じ気持ちだ…。疾風…これから、どうするの…?
「あんたのアリバイは成立しないよ。鏡野先生のその癖を考えれば、事後にいくらでも偽りの情報を吹き込める。それ以前に、当の先生がもういないんだから誰もあんたの正確な行動は証言できない」
疾風はもう一度一息ついた。
「なぜだ…?」
疾風がそう聞いた。でも、それからしばらく経っても、将弥くんから答えは返ってこない。
「聞いた俺が悪かった。でも、俺にも多少の想像はついている…」
外からはまた、しばらく静寂だけが聞こえる。その合間に、疾風の声がする。
「あんたが風花のことを思い出させるような紙を残していたからさ…想像だけど、たぶん、風花も…」
「ああ、妊娠させられたよ…鏡野に」
思わず息を呑んだ。…じゃあ、あの噂って、まさか…本当の、話だったの…?
「彩芽…知っていたのか?」
「当然。風花は…鏡野の欲望の道具にされて…彩芽の復讐の道具にされた…」
「彩芽が父親に抗議するために、父親と風花の交際を噂として流した…そういう事か?」
「ああ…生徒の売春疑惑が広まれば、当然学校はその相手を探し出す…彩芽はそう思っていたらしい。でも…それより先に、風花が処分されることくらい、目に見えてる。なのに、あいつは…」
なんだか、切ない。もちろん将弥くんは悪いことをした。でも、鏡野先生がやっていた事だって十分法に抵触するし、彩芽のやっていたことだって褒められるようなことじゃない。考えようによっては風花だって、自分の命と一緒に新しい「命」を奪った…。みんな悪いはずなのに、誰が悪いか分からない…。「正義」と一緒だって、思った。みんなが自分にとって正しいことを主張しているだけで、その実、生み出されるのは歪みだけ…。不意に、疾風がつい最近言っていた言葉を思い出す。
…だれかの命を傷つけるという事は、自分のこころを傷つけるのと同じことだから…
「風花はそれに、耐えられなかった…これから一生その汚点が自分に付きまとうのはイヤだ、って言った。俺は…止められなかった…。分かることもできなかった…風花の、死より辛い苦しみが…」
私の中に生まれてくる気持ちは「分からない」って事だけだった。この世に人を殺していい理由なんてきっと無い。奪われていい命なんてきっとない…。それなのに、私は誰かの死を「因果応報」なんて4文字で片付ける。お肉やお魚も食べるし、死刑もやむをえないとも思っている。さらに私なんか人々の生死を、殺人事件を、ロジカルなパズルなんて次元にまで貶めてさえいる…。結局、極限まで考えるなんてことをしたくないだけだ。自分を最後には「死」と向き合わせる「命のドラマ」から、今の人たちは逃げている…。あるのはただ、自分の生を確認するだけの「生のドラマ」なんだ…。それを突きつけられるのが、怖かった。
「風花の詩の意味、分かってるのか?」
不意に将弥君の声がした。それに続いて、疾風の声もする。
「今、その話を聞いてなんとなく。かなり穿った見方だけど、大切なのは最後の2行…『ずっと風のままでいよう/風のままでいきていこう』なんだろ?風読っていう、『風』が入った姓のままでいたいって事…。もし本当に結婚、なんて事になったら普通男性の姓を継ぐ…『鏡野』姓になりたくない、っていう意思表示を遠まわしに伝えた詩…ってことか。もっとも、詩の解釈なんてその人次第だ。あとから他人がああだこうだ論じて、結局1つの可能性だけに絞るなんてテストみたいなものじゃない。ただ、風花の机にあれを彫ったのは…あんただろ?」
一瞬の間があった。たぶん、将弥くんが頷いたのだろう。
「俺を…どうする気だ?」
将弥くんがそう疾風に尋ねた。不思議な…というより、戸惑いの声だ。
「俺は…どうする気もないよ。あんたなら気がついてるだろ?俺のさっきの推理に物的証拠がないことくらい」
本当だ。言われてみれば、そうだ。推理小説としてはある意味、反則だ。でも私にとって今、自分の目の前で起きていることは推理小説でもなんでもない。
「それに…考えようによっては、あんただって被害者だ。…でも」
疾風の足音が近づいてきた。私にはもう分かっている。昨日からの、意味深な疾風の言葉の、本当の意味が。
「風花は…本当に、そんなことを…そこまで、望んでいたのか?」
疾風は時計塔の扉を開けた。そこには、顔を俯けて少し涙を流している将弥くんの姿があった。私は、一歩前へと踏み出す。そのとき、将弥くんが少し私のほうを見た。彼は急に泣き崩れた。彼の目元にたまっていた涙が、不意に一つ、また一つ、零れていった。彼の口元は、微かに「風花」と動いたように見えた。見ていて痛ましかったけど、こんな殺人犯も珍しい気がした。
「将弥くん…」
わざといつもよりちょっぴり低い声で、意識してゆっくり話す。将弥くんはただ、私の足元で泣いている…。
「あたし、うれしかったよ…将弥くんと過ごせて、あたし…ホントに、うれしかった…」
言いながら思い出していた。そうだ、風花は自分のことを「わたし」じゃなくて「あたし」って言う…。
「でも…でも、もう、十分だよ…こんなにまで、あたしの事を想い続けてくれて…ホントに、ありがとう…。あたし、世界で一番…幸せだよ…」
言葉は自然に、私の口からあふれ出す。まるで、風に乗って舞い降りてきた風花の魂が、私に宿ったみたいだった。私の「黒髪」が風になびく。疾風の付けてくれた2つのリボンも、私の頭の上で哀しげに、この風になびいているのだろう。その下で、私の出会った中で一番優しい犯人が泣いている。彼の声と風が溶け合って、この時計塔を包み込んでいるみたいだった。そうして、きっと、いつまでもこの時間は私たちの胸の中に残るのだろう。


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