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かぜのうた

第7章 論理の台風

次の日の午後、私は1人で家を出た。風は今のところ落ち着いているけど、少しでも気を抜くとまた強く吹きそうだった。私が家を出た理由はもちろん、神崎のおじさまに会いに行くためだ。昨日着ていたコートはクリーニングに出してもらうことにして、今日は茶色のコートにジーンズを穿いて出掛けた。神崎のおじさまにも本当は服装のこととか褒めてもらいたいけど、おじさまはおばさまにゾッコン、っていうことは前からよく知っている。それに「逆もまた然り」だって事も。おばさまは本当に40歳が近いのか疑わずにはいられないほど若い。「雅お姉ちゃんとお友達」って言っても通用しそうだ。だから私はあえて、おしゃれをほとんどしないで出掛ける。その方が神崎のおじさまも気を使わなくて話しかけやすいだろうし。
おじさまの家へ行くと、おじさま本人が出迎えてくれた。足がまだ完全には治っていないおじさまが玄関に出るという事は、おばさまは出掛けているらしい。私は、そのままおじさまの書斎へ通される。書斎を訪れてすぐに視野に入る重厚な木の机は、今では珍しいマホガニー製ではないだろうか。机の上には、おそらくおじさまの飲みかけであろう薬湯がおかれていた。部屋の両側面を様々な蔵書で…その大半は当然、推理小説だ…埋め尽くされた部屋は、色で表すならまさしくセピア色だ。ここから19世紀末のロンドンに思いを馳せることが、この場所で時を過ごす最高の方法に違いない。
「チョコレートでいいですか、メイベル?」
おじさまは冗談半分に私にそう問いかける。目の前にいるのは、おばさまと同じく40歳が近いとは思えないほど若々しい男性だ。背も高く見え、髪も黒々としていて、とにかく若さを感じる。それと同時にある種の寂寥感というか、社会に対する諦観の念を感じさせるのも、私にとってはおじさまの大きな魅力だ。それなのに、今私に向けられたその言い回しや声音は、まさしく60代は優に過ぎているであろう老紳士の声だった。さすが元俳優、なんていうと失礼だけど、心の中ではそう思う。
「はい、ありがとうございます」
私も意識して、少しかわいい声を出しながらソファーに腰掛ける。おじさまは飲みかけの薬湯とココアを手にして、私の正面に座った。そして、いつもの低くて甘美な地声で、私を包むように話し始める。
「美寛ちゃん、君の高校で起こった事件について、だね?」
そう言ってから、おじさまは薬湯を一口飲んだ。私もココアをちょっぴり口にしてから話し始める。
「ええ、そうです。あの時、私、不覚にも気を失っちゃって…。いつも推理小説で読んでいるから、よっぽど奇抜な…例えばおじさまが遭遇した光高校での事件みたいな…死体に出会わない限りは、絶対平気だと思っていたんですけど…。だから私、パパの捜査にも立ち会っていないし、現状を全く分かっていないんです。でも、私…どうしてもこの事件は自分の力で解決したい!彩芽ちゃんを殺した犯人を、絶対見つけ出したいんです!!」
私はそこまで一気に話して、俯いた。おじさまは私にとって数少ない、自分の気持ちを何でも正直に伝えることが出来るのはおじさまだけだ。おじさまになら…たぶん、聞かれれば疾風のことも話すだろう。でもおじさまは、そういう話を自分からすることは絶対にない。そして私が、おじさまの顔を再び見たときだった。
「するとあんたが、その『ネメシス(復讐の女神)』ということかね?」
私は、予想外のおじさまの言葉にハッとなった。もちろんこれも、おじさま流の軽いジョークだ。しかし小説や戯曲からの引用文をとっさに会話に、しかも当人の声まで想像で真似て使うなんて…!しかもすごく、もっともらしく聞こえる。やっぱり、私はおじさまとドルリィ・レーンを重ねてしまう。
「なるほど、美寛ちゃんの気持ちはよく分かる。しかし、もう少し冷静に…。まずは冷静にならないと、現場の状況や問題点をはっきり認識できない。これらを認識できた方が、解決の近道になるのはまず間違いない」
「そうですね…」
私は萎れる。
「何もそんなに意気消沈しなくていい。人間は誰しも感情的になりうる。しかし、大体において…少なくとも理論的な考察をする場面では…それを制御しなければならないのが探偵だ」
あまり慰めにはならない慰めだけど、そういう言葉をかけてくれるだけでうれしい。おじさまは話を続ける。
「では…基本的な情報から整理しよう。被害者は鏡野彩芽、17歳。私立深月高校に通う2年生。もっとも、このような情報は美寛ちゃんのほうが詳しいだろう」
私は小さくうなずいた。
「死因は…見たから分かるだろう?ボーガンらしきものから発射され、額に突き刺さっていたあの矢だ。もちろんボーガン本体が現場に残っているようなことはない。ただ、矢が特殊だったからすぐに特定は出来るだろう。死に際に関してだが、あの一撃で即死とみて間違いない。それ以外の外傷は後頭部に少し傷がついていただけだ」
「後頭部…ですか?」
「ああ、どうやら被害者は扉のすぐ前で撃たれたらしい。反動で飛ばされたときに扉にぶつかって出来た傷のようだ。扉にもそれらしい傷跡があるから間違いないだろう」
「誰かがあの場に…つまり、わざと扉をふさぐ形で移動させたってことはないんですか?」
「それは無いとみていい。そのほかの傷など不自然なところは全くないし、第一あそこに運ぶ意味がない」
「意味は…あの扉を開けないようにして、死体が発見される時間を遅くするためとか…」
「それなら最初から死体を扉にくっつけて寝かせておけばいいじゃないか。わざわざ扉にもたれさせる意味がない。美寛ちゃんがドアを蹴った時に死体が倒れた、というならその前提条件として死体は起き上がっていた…つまり、扉にもたれかかっていた状態であったという事だ。その状況なら、力をかなり入れれば扉が開きかねない。現に、2人が最初に扉を開けようとしたときは、少し扉が開いたのだろう?」
確かにそうだ。あの時無理をして扉を開けてもよかったけど、もしそれが高価なもので、弁償とかを迫られたらどうしよう、とも考えはしたのだ…なんていうと多分ウソだろう。現に私はその直後、扉を思いっきり蹴っている。少なくともそのときは、向こうの「荷物」がどうなってもいいとは思わなかった。結局は最低限の現場保存になったからよかったのかもしれない。
「そう、だから警察はこう考えている。何らかの事情で怨恨を抱いた犯人が、被害者が屋上に出てきた瞬間を狙って、向かいの山肌から狙撃したのだろう、と。これが一番単純な解決法だ」
「確かに、そうですよね。私もパパに、山肌に怪しい人はいなかったか聞かれました…」
いつの間にか私の口調は丁寧になっている。最初に「メイベル」だなんて呼びかけられたからかもしれない。
「この方向から考える上で問題点は、動機の側面を除けば一つだ。すなわち、犯人はどうして被害者があの時間に屋上に行くことを知っていたのか…」
そうだ。今まで気がつかなかった。何で彩芽は正月休みなんて変な時期に、そうそう使わない北校舎の、しかも屋上に行く用事があったのだろう?
「これに関しては、かなり全うな推論が一つある」
私は改めておじさまの探偵としての力に感服していた。すごい、おじさまはもうそんなことにまで理由を付けれるんだ。しかし、ここでおじさまは意外な事を言い始めた。
「どうやら彼女が屋上にいた理由は、美寛ちゃん…君を嗤うためだったらしい」
「えっ…?どういう事ですか?」
「これは白沢合歓という2年生が言っていたことだそうだが…彼女は被害者から生前、こんな事を聞いていたそうだ。これを聞いたのは昨日の朝10時半ごろ、つまり時間が正確ならば、被害者が死ぬほぼ直前だ」
彩芽は死ぬ直前に合歓と話をしていたという事か。でも、なんでそれが自分に結びつくのか分からない。
「白沢さんは屋上へ向かう階段を上る被害者を見かけた。そこで、何をしに行くのか問いかけたそうだ。すると、こんな答えが返ってきたらしい。美寛ちゃん…君に、ウソのメールを送った、と。もちろん内容も聞いたが、それは別にたいしたことではない」
な…!?私は思わず赤面した。私は昨日晩、結局パパの「第2の質問」には答えなかった。パパには言わずに通すつもりだったのに、合歓があろうことか警察にしゃべっているなんて…。という事は、パパは昨日の夜、私が答えるべき内容を知っててあの質問をしたって事になる。いくら親でもちょっぴりヒドイ。でも、改めてそれを蒸し返さないおじさまには感謝した。
「要するに被害者の目的は、君と誰かが屋上に出てくるのを見ることだったようだ。その証拠に、被害者の死体の傍らには携帯電話が落ちていた。おそらくカメラ機能を使うつもりだったんだろう」
彩芽にはそういう、過ぎた悪戯癖があった。しかも意外に手の込んだことをするから、余計にタチが悪い。本人にとっては軽い冗談のつもりだったんだろうけど、私こそ冗談のつもりで撮ったキスをせがむポーズのプリクラを、疾風の通学カバンに貼られたときは本気で心臓が止まるかと思った。
「も、もう分かりました!…で、でも」
自分に冷静になるように必死で言い聞かせる。
「それでも、それを知っている人はかなりいたと思います。彩芽、口が軽いから…」
そのことにもおじさまは、さして驚かなかったようだ。
「そうだろうね。萌葱将弥くん…被害者の恋人は同じ事を前の日に聞かされたと言っていたそうだし、それに被害者は舞台向きの、地声が大きい人だっただろう?」
確かに。彩芽の声はかなり大きかった。本人の言う「内緒話」は、たいてい内緒になっていない。それに将弥くんになら、いかにも話していそうだ。あの2人が付き合っていたことは、多少その方面に疎い私でも気がついていた。
「被害者のお父さんにあとで確認したところ、娘の部屋からそのような内容の電話をしている声が漏れていたらしい。話し相手は時間からして萌葱くんだろう。それから音楽の小沢木先生と一年の鎖井敏瑠くん…。この2人も、廊下で話していた被害者と白沢さんの声を聞いていたらしい。この事からもどこでどう、この情報が漏れているか正確には分からない。ボーガンの準備という問題も、あまり重大でなくなってしまう」
私はため息をついた。あんなに浮かれていた昨日の午前中がウソみたいだ。私に内緒で、こんな手の込んだ悪戯をするなんて。いくら友達でも、それはひどすぎるし、悪趣味すぎる。私は話題を変えた。
「それより…昨日は、誰があの時間に学校にいたんですか?」
「学校にいたのは君と月倉くんと被害者を除くと…図書委員の白沢合歓さんと鎖井敏瑠くん、それから司書の姥山悠子さんの3人が図書館で本の調査をしていた。それから被害者の父、鏡野爽先生と化学部で被害者の恋人だった萌葱将弥くんが理科準備室で作業をしていた。それから音楽室に小沢木琴子先生がいた。あとは、南校舎の警備員室に警備員の梓田古典さんがいた。これだけだ」
そこまで言うと、おじさまはぬるくなった薬湯をもう一度口にした。
「とにかく、この方面から目下警察が捜索中、というのが現状だ。今のところ、推理小説的な要素はほとんど存在していない」
これは喜ぶべき事態なのだろうか?私のように普段から推理小説を…それも、いわゆる「本格派」や「新本格」ばかりを読んでいる人間には、日常の事件がものすごくつまらないものとして映ってしまう。この上なく不謹慎な発言だと分かってはいるけど、そうなのだ。いわゆる「社会派」的な事件には興味がない。『1DKのマンションでOLが殺されて、靴底を擦り減らした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる』なんてストーリーは、私にとっては面白みも何もない。非現実の世界で「完全犯罪」や異常性を持つ犯罪に触れすぎているために、日常でもそれが常に起こりうると錯覚する。だから日常の事件に密室や不可能犯罪といった「謎」がないことに失望してしまうのだ。殺された人の、遺された人の「痛み」に全く向き合おうとしないで…。こういう発想を持っている時点で私は「狂人」かもしれないな、と苦笑する。
その時、近くで何かの旋律が聞こえてきた。どうやら、おじさまの携帯電話の着信音らしい。その電子音の調べは、窓の外から聞こえてくる風と重なって、大海の淀みのようなメロディを生み出していた。今の曲はたぶん、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」だろう。私が曲名を思い出している間に、おじさまは誰かと会話を始めていた。
「ああ、隆臣か?どうした…?」
電話の相手はパパみたいだ。きっと何かが分かったんだろう。もしかして、もう犯人が捕まったのかなと一瞬だけ思った。もっとも、それも一瞬だけだった。…違う。明らかに違う。おじさまの顔がみるみる険しくなっていく。電話を終えたおじさまの顔は、確実に探偵の顔だった。私は新たな、しかも悪い方への展開を覚悟した。


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