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しきのうた

第3楽章 〜ひろのうた〜


「人の気持ちは他人にはわからないよ、絶対に。科学的にありえないもの。」
歌野昌午『密室殺人ゲーム王手飛車取り』より

「全く、遥も運がいいよね〜。テストの日に限って熱が出るんだから」
「ホントだよね〜。1年の2学期もそうだったから、これで2回目?仮病じゃないの?」
「ううん。入学式の後、早退してすぐに病院に行ったみたい」
「道理で。いなくなっちゃったからどうしたのかな、とは思ってたけど」
言いながら私はため息をつく。今日は4月10日火曜日。私の手には入学直後に配られたプリントや書類の束。私の横にいるのは、同じクラスの吉原有香(よしはら・ありか)。で、今私たちが何をしているのかと言うと、1学期の始業式を早退して次の日のテストも病欠した、同じクラスの秋川遥(あきかわ・はるか)のところにプリントを届けに行っているわけなの。もう、小学生じゃないんだから…。
そうそう、言い忘れていたよね。私の名前は雪川美寛、高校3年生。ちょっと背は低めだけど、かわいい顔立ちと大きめの瞳、それから肩にかかるくらいのサラサラな黒髪が特徴的な、とってもチャーミングな女の子なの。さて、自己紹介は済んだから…。
遥の家は駅に近い8階建てのマンションだった。その割にセキュリティは大したことなくて、別に誰でも普通には入れてしまう。遥の家は702号室だった。遥の部屋は、私たちの住む街が一望できる、いい部屋なんだよね。私と有香は話をしながら、マンションのエントランスをくぐる。遠くから誰かが電話をしている声がする。前を見ると2基のエレベーター。片方は閉じていて、もう片方には白い服の女性が乗っていた。右手は操作盤のところにあるようだったけど、扉は女性を乗せたまま、すぐに閉まってしまった。有香もそれに気付いたらしく、あわててエレベーターに駆け寄る。
「あっ、乗せてもらおう!」
有香はすぐにボタンを押した。エレベーターは動き出すまでなら、上や下を指しているボタンを押せば開いてくれる。ちょうど上に行くことを確認していたので(言い忘れていたけど、このマンションは地下1階が地下駐車場になっているの)有香をとめなかった。でも…そうしない方が良かったって、特に有香は後悔することになる。
有香が素早くボタンを押したおかげで、エレベーターは上の階に行くことなく開いた。そこには一人の女性が乗っていた。その女性は青白い顔で…。
「えっ?」
エレベーターにちょっぴり遅れて駆け寄った私は、とっさに動きを止めた。エレベーターが開くと同時に、女性が前に倒れこんできたのだ。彼女はそのまま、前のめりに倒れる。そして…。
「きっ……」
ふと横を向いた有香から、うめき声が聞こえる。駆け寄った私の目にも「それ」が見えてしまった。倒れこんだ女性の背中に、見慣れないもの…。いや、見慣れているけど、こんな場所で目にしたくないもの…。それは赤く染まった服とそこに突き刺さった…
包丁、だった。
「きゃあああぁぁっ!!!」
有香は悲鳴を上げて倒れこむ。私は先に有香に悲鳴をあげられたおかげで、呆然と立ち尽くしてしまった。そんな、さっきまで元気だったはずなのに…どういう事!?これはもしかして、エレベーターが私たちの目の前で閉まったあの一瞬の間に刺された…?次の瞬間、私はエレベーターの中を覗き込む。包丁を彼女の背中に刺した人間が、エレベーターに乗っていないと、これは…。
「ウソ…」
そこで初めて声が出た。自分でも驚くほど掠れた、絞り出すような声だった。…誰もいない。エレベーターの中には血だまり以外に不自然なものは何もない。不自然な跡もない。私は死体を一瞥する。背中に深く刺さって、傷口から今も血が溢れているようだ。背中から滴る血は、ズボンを通り越してくるぶしの辺りにまで伝って流れ落ちている。傷口に深く刺さった包丁…背中に自分で包丁を、あそこまで深く刺しこめるわけがない。これは、本当に…。

不可能犯罪かもしれない…。

私はすぐに救急車と警察を呼んだ。警察はもちろん、パパのケータイに直接かける。私のパパは雪川隆臣といって、私たちが住むところの県警の警部だ。パパは手が離せない…例の「ルナティック」の件の後処理が長引いているの…ので、代わりに宇治原さんたちが来てくれることになった。宇治原さんというのはパパの直属の部下にあたる人なの。私には女性の手当てなんて何も出来なかった…電話の後に呼吸や脈を確認したら、すでに死んでいた…ので私は有香を介抱していた。その時には有香の叫び声を聞いて、何人かがエントランスに集まってきた。その中の青い服を着た野次馬らしき女性が、彼女に近づいていく。そして顔を覗き込んで声を上げた。
「恵美!」
青い服の女性が死体に触ろうとするので、私は押しとどめる。理由を説明しているうちに、ほぼ同時に宇治原さんたち警察と救急車がやってきたので、私は気を失っている有香のそばで大人しくすることにした。

現場の捜査が続いている。私は遥の家の郵便受けにプリントを突っ込んで(遥に会おうなんて思わずに、こうやって帰ればよかったんだ…)、現場の近くで待っていた。もちろん、もうエレベーターには近づけない。青いシートと黄色いテープが見えるだけだ。有香は小さく息をしながら目を閉じている。それにしても…死体に遭遇したのは、今年に入って3回目。しかも、入学式の次の日だよ…?これから毎月事件に遭遇するなんて事になったら、私はそんな伝説を作ったパパとママを…って、いけないいけない、そんな妄想している場合じゃないし、そもそもパパとママが通っていた高校は私の通う高校とは違う(ちなみにパパやママは光高校、私や疾風は深月高校)。とにかく、目の前であんな不合理なことが起きるなんて、私は認めないもの…どうしてこんなことになったのか、考えなくちゃ!
現実を直視すれば、私と有香が生きている間の彼女…彼女の名前は恵美さんらしいので、これからそう呼ぶことにする…を見てエレベーターの扉が閉まってから、再び開くまでのわずか1秒か2秒の間に、犯行が行われたことになる。という事は単純に考えれば、あのエレベーターには恵美さん以外に少なくとももう1人、乗っていたことになる。問題は隠れるスペースだ。最初に開いていた時は、操作盤の影なりに隠れることは不可能じゃない。すぐに閉まってしまったからそこまでは見ていない。白い服の女性がこちらを向いて立っていることしか分からなかったんだから。でも、その後が問題だ。次に開いた時に、一体どこに隠れる?操作盤の影なんかにはいなかった。私が調べたんだから間違いない。じゃあ上?次に考え付くのはそこだ。非常用のハッチか何かを開けて、エレベーターの上なり下なりに隠れる…。ううん、これも無理。そもそも素人がハッチをすぐに開けられるわけがないし、閉まっていた時間はわずか数秒。その間に行動できるわけがない。エレベーターの奥の壁についている小さな扉も同様だ。マンションのエレベーターには、棺桶を立てないようにするためにエレベーターに穴が開いていて、そこに棺の一部を入れることで移動させられるような空間が設けられている。あそこに隠れることも出来なくは無いかもしれないけど、今回はやっぱり無理…。
あれ、でも待って?わざわざ扉が最初に開いたときと2回目に開いたときの間の数秒に移動しなくても、最初からそこに逃げ込んでおけばいいんじゃないの?そうだよ、それなら……。いや、それじゃ全然ダメだ。そもそも恵美さんは刺されたらすぐに倒れてるはず。恵美さんがその数秒間立っているわけがない。つまり誰かに刺されたなら、私たちが最初に彼女を見たときに、もう彼女は倒れているはずだ。それにそもそも、まだ犯人が隠れているんだったら当然、まだ出てきていないって事になる。このエレベーターの扉は手動じゃない。つまり人間の力で開け閉めはできない。エレベーターの上部や下部からワイヤーを伝って他の階に行くことは出来ないし、唯一の出入り口であるはずのこの扉には、さっきからずっと私がいる。あれ以来エレベーターは動いていないし、そんな事は絶対無理だ。
遠くの方から声が聞こえてくる。事情聴取が始まったらしい。さっき宇治原さんがそっと目配せしてくれた。これはきっとパパが後でやってくるから、それまで事情聴取は引き伸ばしてくれるという意味だろう。断片的に話が聞こえてくる。どうやらすぐ近くの部屋を臨時に使っているらしい。今は恵美さんの名前を口にした青い服の女性が聴取されていた。彼女は恵美さんの友達で、今日このマンションの1階エントランスで待ち合わせをしていたらしい。変な場所で待ち合わせるんだな、とは思ったものの時間の少し前に来た。だけど、ちょっと前に親から電話がかかってきて、エントランスの外で話をしていたそうだ。そういえばここに入るときに話し声が聞こえていた気もする。私はぼんやりとそんな話を聴きながら、自分の考えを深めていた。
…やっぱり、あのエレベーターには恵美さん以外の人は乗っていなかった。そういう結論になる。じゃあ次に考えられるのは…自殺?いや、そんな事はありえない。包丁は背中に深く刺しこまれていた。あれは自分の力じゃ無理だ。包丁を固定して思いっきり自分から後ろに下がれば出来なくも無いけど、少なくともエレベーターにはそんな固定をする場所はないし、包丁を固定するようなものも何も見つからなかった。エレベーターは狭いから、そんなのがあればすぐに見つけている。氷や蝋やドライアイスがなくなる時間も、もちろんない。おまけに恵美さんは手ぶらだったんだし。あれは誰かの手で刺されている。それは間違いないはずだ。
じゃあ、具体的に何かのトリックが使われているはず!…そこで真っ先に思いつくのは機械トリック。さっき考えた棺を入れるための穴に何かを仕掛けて…って、そんなの仕掛けていたら乗った瞬間に分かるはずだ。機械トリックが自分の存在を一度隠して、ターゲットが後ろを向いたら発動する、だなんて、そこまで高度に動くわけがない。そんなのは「クロック城」や「アリス・ミラー城」みたいなところでさえ無理な話で、マンションのエレベーターごときに仕掛けられる機械トリックなんて、たかが知れてるはずだもの。恵美さんに機械トリックを発動させるように誘導すれば不可能だとはいえなくなるけど、そのためにエレベーターの奥の穴を開けさせるとか…非現実的すぎる。じゃあ他に機械トリックと言えば…そうか、ハッチは?上のハッチから包丁を落とす。十分な高度があれば、人間の背中にも刺さるはずだ。…でもこれも無理。恵美さんをあの数秒間に、ハッチの真下でかがませることなんて出来ない。それにそもそも包丁が刃を下にして落ちるかどうかも分からないし、エレベーターの扉が手動じゃないんだから、投げ落とすことも不可能だ。他に何かが残っているとすれば…。
…あ、そうよ、エレベーターが2連結になっているっていうのは!?エレベーターの箱が縦に2つ連結している、ってこと。上のエレベーターには本当に生きた白い服の女の人が乗っていて、下には刺された恵美さんが、きっと扉に前のめりに、もたれかけられている。まずエレベーターの上の部分が私たちに見せられ、すぐに扉が閉まる。エレベーターの文字盤に操作をしておいて動いていないように見せかけて、実はエレベーターは少し動いていて下の部分が1階に来ている。そして扉が開いて恵美さんが倒れこんでくる…。
さすがにバカらしいか。本格推理小説ならともかく、ここは何の変哲もない街中のマンションだもんね。う〜ん、やっぱり機械トリックって無理なのかなぁ。うん、そうだね。だいたいこの狭いエレベーターの箱の中に、何らかの物理トリックが仕掛けられていたら普通気がつくよね…。それにそれを調べているときに作動して刺されたとしても、それなら正面から刺されるはずだし、そもそもあの数秒間で都合よくそんな事が起きるとも思えない。うん、やっぱりこれは物理トリックじゃないんだ…。となると心理トリックか。う〜ん、でも何も錯誤なんてしていないよね、私…。恵美さんは本当に死んでた。ちゃんと何箇所か診たから間違いない。例えば恵美さんがホントは演技をしているだけで、驚いてその場を離れた隙に自分を別の場所に隠していた死体とすり替える、なんてトリックもありえる。でもこれは余りにリスクがあるし、今回はそれが悪い方に働いた…つまり私がその場に残って、しかも恵美さんの死亡を確かめた。これを考えなくても、やっぱり死体のすり替えを狙っていたなんてありえない。あとは、有香を疑うようで悪いけど、早業殺人。つまり恵美さんは本当は死んでいなかったのに、恵美さんの近くにいた人が駆け寄って生死を確かめるふりをして殺す、っていう。でも有香は恵美さんに触れてさえいない。そのまま気を失った有香に当然そんな事は出来ない。有香を疑うなら、有香が操作した操作盤に機械トリックがある、って考える事もできるけど、どう考えても普通のエレベーターの中でそんな機械トリックは出来ない…。それに恵美さんがあそこにいたのも偶然のはずだし。じゃあ、一体何がどうなっているの…?まって、ゆっくり考えて。とにかくまず犯人はエレベーターには乗っていない。そして自殺じゃない。心理トリックも違うし機械トリックも無理だ。…そうだ、機械トリックに関していえば、こんな場所で機械トリックを仕掛ける必然性もない。大体誰かがすぐに見つけてくれないと不可能状況じゃなくなっちゃって、それじゃ意味がない。少なくとも私と有香があそこにやってきたのは偶然なんだから。…あれ、待って?私たちがいなくても、あの電話をしていた青い服の女性が発見することになったんじゃ?そして彼女は恵美さんと知り合いで…。

その時だった。私はもう1つ、ある考えを思いついた。…これなら確かに、この不可思議な状況を説明することはできる。それに…そうだ!!私、「あれ」を見落としていた!でも、もしもそうだとしたら、何でこんなことをしたの?動機が全く分からない。可能性はないわけじゃないけど…でも、それは…。
「美寛」
気がつくと目の前にパパがいた。
「あっ、パパ!」
「友達は…まだ気がついていないようだね。事情を説明してくれるか?」
私は事情を話す。こういう説明にずいぶん手馴れている自分に気がついて、複雑な気持ちになる。
「なるほど…その話が本当ならば、厄介そうだな」
パパはひとしきり私の話を聴くと頷いた。私は今思いついたことをパパに話す。
「あのね、パパ。すっごく変なんだけど、この状況を説明できることがあるの」
「美寛、また突飛な発想だろう?」
パパは呆れたように笑顔を見せる。私もそれに笑顔を返す。
「うん、自分でも信じられないくらい突飛な発想。…恵美さん、我慢してたんだよ」
その言葉にパパは不思議そうな顔をした。
「我慢?何を?」
私は確信を持って答えた。
「自分が刺されていることを、だよ」

私の言葉にパパは目を丸くした。
「え?…美寛、本気で言ってるのか?」
「うん、本気だよ。そうじゃないと、血を説明できない。ほら、恵美さんの死体…血が刺されたところからズボンや足を伝って、血がくるぶしの辺りまで来ていたでしょう?逆に言うとそれは、そんなに長い間、自分の出血を放っておいたまま立っていた、ってことになる。包丁が刺されたままだから、流れ落ちる血の量は多くない。それに服に吸い込まれたりもするしね。すぐに倒れたら普通、血はそんな風に流れたりしないよ。だから、恵美さんは血を流したまま立っていたことになるの。きっと別の階、おそらく2階か地下駐車場でどうにかして刺して…もしかしたら、刺した人が別にいるかもしれない…そのままエレベーターで1階に移動してきたんだよ。あ、その後エレベーターは上を指していたから、きっと地下駐車場のほうね」
「…でも、そうなるとエレベーターが1度閉まったのはどうしてだ?」
「そこはちょっと想像になるけど…きっと、意識が朦朧としていたんだと思う。私たちが来る時まで、自力でエレベーターを開けていたんだよ。でも、指がボタンから外れてしまった…そこに運悪く私たちが来ちゃった、ってこと」
「だが、何のために?」
「きっと、あの青い服の女の人に恨みか何かがあって…とにかく、あの人に何かを思い知らせたかったんじゃないかな。私たちが来なくて、あの人に電話がかかってこなければ、あの人が刺された恵美さんを見つけることになったはず。ほら、恵美さんと知り合いだって言ってたでしょ?」
「つまり、目の前で死ぬことで衝撃を与えようとした…ってことか?覚悟の上の死、だと?」
「うん。…上手くいかなかったけどね。もしかしたら、私と青い服の女の人を見間違えたのかもしれない。私、エレベーターに駆け寄ったから…それで安心して、そのまま倒れこんだのかも、ね」
私は不意に悲しくなる。そうまでしなくても、もっと思いを伝える方法は、あるはずなのに…。

数日後、事情がはっきりしてきた。恵美さんとあの女性には、いわゆる痴情の縺れがあったようだ。そのことで恵美さんは深いショックを受けていたらしい。彼女が自分の殺人を依頼する裏サイトにアクセスしていたことも分かった。あの日、地下駐車場に見慣れない男がいたらしいことも分かって、警察は男の行方を調査している。その一方で警察は、裏サイトの取り締まりも強化するようになった。そして私は、癒えぬ傷を抱えたまま、今日も疾風と時を刻んでいる。


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