とわのうた
第5部
うわああああああぁぁぁ…
その悲鳴に私たちは再び飛び上がった。今度は男の悲鳴だ。大きな悲鳴がはっきりと部屋中に響く。
「こ、今度は何!!?」
安土が取り乱す。彼女はそのまま気を失いそうになっていた。
「今の…F塔じゃないですか?」
「うむ、そうらしい…今日はどうしたというのだ?」
デュランも疾風も立ち上がる。奥から恵比須が出てきた。さすがに彼も狼狽している。
「今度は何事でしょう?」
「分からない…私たちで確かめに行く。恵比須さんは彼女を…」
デュランは安土を見た。安土は完全に放心している。
「ふむ、もし力があるなら恵比須さん、彼女は3階の客間まで運んだ方がいいかもしれない。3階の客間のどちらかの部屋にムッシュー・柿崎と南奈さんがいるはずだ。目覚めた時に彼がそばにいたほうが、彼女としても安心だろう」
「かしこまりました、デュラン様」
恵比須は安土の手を肩に回し、歩き始めた。恵比須は外見の割に体力があるらしい。安土もまだ何とか意識はあるらしく、うわごとのように「修路…」と言っていた。デュランは2人を見届けてから私たちのほうを見る。
「一緒に行けるかい?」
私と疾風は無言で頷いた。空岡は既にF塔に続く扉の前にいる。
「早く、行ってみましょう!」
空岡が急かす。F塔への扉をくぐる前に、私はホールを見渡す。時刻は午後8時10分。その時、奥の入り口からようやく博士が姿を見せた。私はその姿を目にとどめてから、F塔へと向かった。
F塔の1階、2階と順に捜索したが、何も異常は見られない。しかし、3階に上がってきた瞬間にデュランが足を止める。私もその異常に気付いた。この臭いは、おそらく間違いない。
「博士の実験室のドアが開いている…」
デュランはそう呟くと、中に足を踏み入れた。そして机の奥を覗き込む。
「やはりか…空岡さん、雪川さん!あなたたちは来てはいけない。月倉君は…大丈夫かね?」
デュランがそう問いかけた時には、疾風は部屋の中へと足を踏み入れていた。
「焔さん…これは刺殺ですね。心臓付近を一突き」
疾風が冷淡に言い放つ。…焔が、殺された…?
「そのようだな。専門家ではないから何とも言えないが、死後間もないだろう」
デュランはハンカチに右手を包んで、焔の体を動かし、手をのぞき見た。
「ナイフを手にしている…これは、自殺か…?」
「自殺であんなに大きな悲鳴をあげる人はいないでしょう。…こう考えた方が、筋が通りませんか?つまり、犯人は彼の体にナイフを突き立ててすぐにその場を去った。ナイフを引き抜かなければ、返り血は浴びない…血が飛び散るのはほとんどがナイフなどの凶器を抜く際だから…その後ナイフを刺された焔さんがそれに気付き、ナイフを自分の力で引き抜いたが絶命した…そう考えた方がいいと思います。握り手もいわゆる逆手ですしね」
私は意を決して中に入り、背伸びして疾風の肩に自分の肩を並べる。そこにあったのは、確かに焔の死体だった。顔は驚愕と苦悶に歪んでいる。右手はナイフを持ったまま。腹部から流れ出た血は既に乾き、赤いカーペットに微妙なグラデーションを作り出していた。それより私が気になったのは、焔の死体の前に落ちている、あるものだった。
「あの、デュランさん…」
「大丈夫かね?」
デュランは私のほうを見る。穏やかな目つきだった。
「はい…それより、あれ…何ですか?焔さんのお腹の前に落ちている機械…」
デュランは慎重にそれを拾い上げる。
「これは…博士が使っているのを見たことがある。小型の拡声器だ」
「え…?拡声器?」
私は首をかしげる。死体の前に、拡声器?疾風が腑に落ちないように呟く。
「きっと、彼の悲鳴を犯人が拡声器で拾ったんだ。そして中央の塔にいた俺たちにまで、確実に悲鳴が聞こえるようにした…。理屈ではそうなると思う。そうじゃないと、ある程度離れたF塔の3階から中央の塔の1階までは悲鳴が届かないかもしれないからな。だけど、何でわざわざ悲鳴を俺たちに聞かせようとしたんだ?」
「いや、焔さんが何かの目的で拡声器を使おうとしている、その瞬間にナイフを刺された可能性もある。しかし…この場合も、ではなぜ焔さんが拡声器を使う用事があったのかが分からないな。とにかく、ここは死体にシーツか何かをかけて、後はそのままにしておこう。…そうだ、博士にこの事を伝えなければならないな。博士はどこへ?」
「あ、デュランさん、私さっき見ましたよ。F塔に行く直前に、博士は台所から出てきました」
「食事の後なら、博士ってたいてい礼拝堂にいるんじゃないかしら?」
空岡が入り口から声をかける。彼女は気丈そうに見えて、かなり青ざめていた。
「確かにそうだな」
デュランだけが一度自分の部屋からシーツを持ってきて、死体にかぶせたあと、私たちは実験室を出た。…でも、これってどういう事だろう?ここは現実の世界じゃない。あくまでもデータの世界、幻想なんだ。でも、それなのに…目の前の死体は本当に死体で、死体になった人間は本当に人間だった…。何だか考えるほど渦巻いて、怖くなってしまう。
「美寛…大丈夫?」
疾風が声をかけてくれる。
「うん、大丈夫…。あのさ、焔さん、本当に死んだ…ってことだよね。ここは幻想の世界なのに…」
「いい、美寛?きっと幻想の世界の中に入ってしまえば、それは現実なんだ。こんな話がある…」
疾風は前を向く。
「あるいじめられっこの男の子が、ある本を手に入れた。でも実はその本は、所有者の願いを叶えてくれる偉大な魔道書だった。次の日から、彼のすむ町は…というか、世界自体が彼の思うままの世界になってしまった。自分は王子で、死んだはずの母親が王女として生きていて、飲んだくれの父は立派な騎士になった。雪がいつも降る男の子の町は、砂漠のオアシス都市へと姿を変えた…それでも現実になった以上、それは現実なんだ。その世界では人が死ぬ。その世界なりの決まりがある。傍から見れば幻想だと分かる。最初にその本の存在を知っていれば幻想とだと分かる。でも、そうじゃなかったら?…きっと分からない。これが現実になってしまう。難しいけど、そういう事だと思うよ」
…きっと何かのゲームの引用だろう。的を射ていないような気もしたけど、でも、何となく嬉しかった。さて、私たちが中央の塔に戻ると、そこには南奈だけがいた。
「デュランさん、柿崎様と安土様は客間でお休みになっております。恵比須さんは、2人の介抱をしています。それで、焔さんは…?」
デュランは首を横に振った。
「いや、聞かないほうがいい…これが答えになるという事は分かるだろう?」
南奈は頷く。続いて空岡が南奈に話しかける。
「あのね、南奈ちゃん。博士を見ていない?」
「え?いいえ、見ていないです。奥の厨房にはいませんでしたが…」
「という事は、まだ礼拝堂にいらっしゃるみたいね」
「どうもそうらしいな」
デュランはそう言うと、P塔に向かう扉を開けた。
「…何か嫌な予感がするのは、私だけか?」
その言葉が私を凍りつかせる。…もしかしてそれは…。
「皆で行こう」