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とわのうた

第5部


「おお、うめぇ!」
柿崎はどんどん料理を口に入れていく。料理はとてもおいしかったし、夕食は和やかに進んだ。ホスト役を務めたのはデュランで、博士は食前の挨拶をした後はあまり話さなかった。それでも両脇にいる疾風や空岡の話に何か相槌を打っていたようだから、機嫌はよかったのだろう。私は安土と一緒にデュランの話を聞いていた。焔は食卓の席から離れ、一人で寝入っている。恵比須は奥から出てこない。デザートを用意しているのだろう、と希望的に憶測する。南奈はテーブルの脇に控えていた。
「お待たせしました…」
恵比須が奥から出てきた。台車の上に乗っているのは予想通りデザートだ。
「洋梨のコンポートでございます」
恵比須は私たちの前に1つずつそれを置いていく。ところが博士には配られない。博士はそれを一向に気にしなかった。きっとデザートは食べない習慣なのだろう。また1つ鐘が鳴る。これは午後7時半の鐘だった。その音を聞くと、博士は立ち上がる。
「さて…私は一度部屋へ戻らせてもらおう」
「ええ、分かりました。博士、今晩はどうもありがとうございました」
「これは君に感謝されるための行動ではない。私の自由意志の結果だ」
博士は空岡の言葉を軽く流して出て行った。私たちはデザートを食べ終え、一度食卓から離れる。南奈と恵比須が後片付けを始めた。デュランが私たち…空岡と柿崎と安土と疾風と私…に問いかける。
「ところで誰か、チェスはできないかね?」
柿崎や安土は即座に首を横に振る。私もつられて首を横に振った。チェスに関する知識といえば、マイクロフト・ホームズがチェスに夢中になっていることと、秋と座木がよくチェスをしているらしいこと、それから僧正殺人事件の登場人物がチェスを研究していたなぁ、ということくらいしか知らない。疾風はチェス盤を覗き込んだ。
「…黒のほうが優勢ですね」
「えっ!?白の方が強いんじゃないの?」
「駒の数で判断しちゃダメだよ」
疾風はさらりと言う。このあたりがちょっぴり憎らしい反面、すごくかっこいい。デュランも感心しているようだ。
「ほお、月倉くんは出来るようだね」
「…そこまで強くは無いですよ」
「私じゃ不満ですか?」
その会話に空岡が入り込む。
「不満は無いがね、マドモワゼル。しかし、貴女の打ち方には独特の癖がある。残酷な言い方をすれば、それに少々飽きてしまっていてね」
結局疾風はデュランとチェスをする事になった。疾風が空岡の動かしていた黒を引き継ぐ。
「お…いかん、寝ちまったな…。博士はどこだ?」
焔が起き上がってきた。他の人たちはみんなチェス盤を眺めているので、私が答えてあげる。
「F塔に戻りましたよ」
「おう、サンキュー」
焔は歩き出した。しかし足取りはかなり怪しい。F塔につながる扉をあける焔の姿を追いながら、空岡も不安そうな顔つきになる。私はふと時計に目が留まった。午後7時45分。
「大丈夫かしら、焔さん?」
「…私が見てきましょうか?」
声を上げたのは南奈だった。後片付けはもう済んだらしい。
「そうね、お願い」
南奈は空岡の言葉に軽く頷いて、F塔へと向かっていった。その数分後、F塔から誰かが出てくる。それは博士だった。しかし博士は何も言わず、奥の部屋へと消えていく。恵比須に用事があるのだろうか。私がその様子を眺めていると、空岡が説明してくれる。
「あれが博士の最も特徴的かつ庶民的な行動。ジュースを作りにいったのよ」
「え…ジュース?」
「そう。博士の家では昔から、よくミックスジュースが作られていたんですって。博士はそれが大好きで、今でも毎晩それを作って飲んでいるの。意外でしょう?」
確かに、なんだか子供っぽい一面だ。
「なんかさ、正体不明って感じがしない?」
安土が横からそう漏らす。
「博士のこと?」
安土は頷いた。柿崎はあくびをかみ殺している。
「麻菜、わりぃけど俺、部屋に行くわ…」
その時、南奈がF塔から戻ってきた。その様子から見るに、焔は大丈夫だったのだろう。安土が南奈に声をかける。
「あ、南奈ちゃん!あのさ、修路が部屋で休みたいって。どこ使えばいいの?」
「分かりました。3階の客間までご案内します」
南奈と柿崎は階段を上っていく。それからちょっぴりは、時計の音だけが響く時間が続いた。ただ時々、チェスの駒を動かす音が混じる。午後8時を示す鐘が鳴った。私は安土と雑談しながら、疾風とデュランの対局を見ている。デュランが長考の末、次の手を打った直後だった。

うわああああああぁぁぁ…

その悲鳴に私たちは再び飛び上がった。今度は男の悲鳴だ。大きな悲鳴がはっきりと部屋中に響く。
「こ、今度は何!!?」
安土が取り乱す。彼女はそのまま気を失いそうになっていた。
「今の…F塔じゃないですか?」
「うむ、そうらしい…今日はどうしたというのだ?」
デュランも疾風も立ち上がる。奥から恵比須が出てきた。さすがに彼も狼狽している。
「今度は何事でしょう?」
「分からない…私たちで確かめに行く。恵比須さんは彼女を…」
デュランは安土を見た。安土は完全に放心している。
「ふむ、もし力があるなら恵比須さん、彼女は3階の客間まで運んだ方がいいかもしれない。3階の客間のどちらかの部屋にムッシュー・柿崎と南奈さんがいるはずだ。目覚めた時に彼がそばにいたほうが、彼女としても安心だろう」
「かしこまりました、デュラン様」
恵比須は安土の手を肩に回し、歩き始めた。恵比須は外見の割に体力があるらしい。安土もまだ何とか意識はあるらしく、うわごとのように「修路…」と言っていた。デュランは2人を見届けてから私たちのほうを見る。
「一緒に行けるかい?」
私と疾風は無言で頷いた。空岡は既にF塔に続く扉の前にいる。
「早く、行ってみましょう!」
空岡が急かす。F塔への扉をくぐる前に、私はホールを見渡す。時刻は午後8時10分。その時、奥の入り口からようやく博士が姿を見せた。私はその姿を目にとどめてから、F塔へと向かった。

F塔の1階、2階と順に捜索したが、何も異常は見られない。しかし、3階に上がってきた瞬間にデュランが足を止める。私もその異常に気付いた。この臭いは、おそらく間違いない。
「博士の実験室のドアが開いている…」
デュランはそう呟くと、中に足を踏み入れた。そして机の奥を覗き込む。
「やはりか…空岡さん、雪川さん!あなたたちは来てはいけない。月倉君は…大丈夫かね?」
デュランがそう問いかけた時には、疾風は部屋の中へと足を踏み入れていた。
「焔さん…これは刺殺ですね。心臓付近を一突き」
疾風が冷淡に言い放つ。…焔が、殺された…?
「そのようだな。専門家ではないから何とも言えないが、死後間もないだろう」
デュランはハンカチに右手を包んで、焔の体を動かし、手をのぞき見た。
「ナイフを手にしている…これは、自殺か…?」
「自殺であんなに大きな悲鳴をあげる人はいないでしょう。…こう考えた方が、筋が通りませんか?つまり、犯人は彼の体にナイフを突き立ててすぐにその場を去った。ナイフを引き抜かなければ、返り血は浴びない…血が飛び散るのはほとんどがナイフなどの凶器を抜く際だから…その後ナイフを刺された焔さんがそれに気付き、ナイフを自分の力で引き抜いたが絶命した…そう考えた方がいいと思います。握り手もいわゆる逆手ですしね」
私は意を決して中に入り、背伸びして疾風の肩に自分の肩を並べる。そこにあったのは、確かに焔の死体だった。顔は驚愕と苦悶に歪んでいる。右手はナイフを持ったまま。腹部から流れ出た血は既に乾き、赤いカーペットに微妙なグラデーションを作り出していた。それより私が気になったのは、焔の死体の前に落ちている、あるものだった。
「あの、デュランさん…」
「大丈夫かね?」
デュランは私のほうを見る。穏やかな目つきだった。
「はい…それより、あれ…何ですか?焔さんのお腹の前に落ちている機械…」
デュランは慎重にそれを拾い上げる。
「これは…博士が使っているのを見たことがある。小型の拡声器だ」
「え…?拡声器?」
私は首をかしげる。死体の前に、拡声器?疾風が腑に落ちないように呟く。
「きっと、彼の悲鳴を犯人が拡声器で拾ったんだ。そして中央の塔にいた俺たちにまで、確実に悲鳴が聞こえるようにした…。理屈ではそうなると思う。そうじゃないと、ある程度離れたF塔の3階から中央の塔の1階までは悲鳴が届かないかもしれないからな。だけど、何でわざわざ悲鳴を俺たちに聞かせようとしたんだ?」
「いや、焔さんが何かの目的で拡声器を使おうとしている、その瞬間にナイフを刺された可能性もある。しかし…この場合も、ではなぜ焔さんが拡声器を使う用事があったのかが分からないな。とにかく、ここは死体にシーツか何かをかけて、後はそのままにしておこう。…そうだ、博士にこの事を伝えなければならないな。博士はどこへ?」
「あ、デュランさん、私さっき見ましたよ。F塔に行く直前に、博士は台所から出てきました」
「食事の後なら、博士ってたいてい礼拝堂にいるんじゃないかしら?」
空岡が入り口から声をかける。彼女は気丈そうに見えて、かなり青ざめていた。
「確かにそうだな」
デュランだけが一度自分の部屋からシーツを持ってきて、死体にかぶせたあと、私たちは実験室を出た。…でも、これってどういう事だろう?ここは現実の世界じゃない。あくまでもデータの世界、幻想なんだ。でも、それなのに…目の前の死体は本当に死体で、死体になった人間は本当に人間だった…。何だか考えるほど渦巻いて、怖くなってしまう。
「美寛…大丈夫?」
疾風が声をかけてくれる。
「うん、大丈夫…。あのさ、焔さん、本当に死んだ…ってことだよね。ここは幻想の世界なのに…」
「いい、美寛?きっと幻想の世界の中に入ってしまえば、それは現実なんだ。こんな話がある…」
疾風は前を向く。
「あるいじめられっこの男の子が、ある本を手に入れた。でも実はその本は、所有者の願いを叶えてくれる偉大な魔道書だった。次の日から、彼のすむ町は…というか、世界自体が彼の思うままの世界になってしまった。自分は王子で、死んだはずの母親が王女として生きていて、飲んだくれの父は立派な騎士になった。雪がいつも降る男の子の町は、砂漠のオアシス都市へと姿を変えた…それでも現実になった以上、それは現実なんだ。その世界では人が死ぬ。その世界なりの決まりがある。傍から見れば幻想だと分かる。最初にその本の存在を知っていれば幻想とだと分かる。でも、そうじゃなかったら?…きっと分からない。これが現実になってしまう。難しいけど、そういう事だと思うよ」
…きっと何かのゲームの引用だろう。的を射ていないような気もしたけど、でも、何となく嬉しかった。さて、私たちが中央の塔に戻ると、そこには南奈だけがいた。
「デュランさん、柿崎様と安土様は客間でお休みになっております。恵比須さんは、2人の介抱をしています。それで、焔さんは…?」
デュランは首を横に振った。
「いや、聞かないほうがいい…これが答えになるという事は分かるだろう?」
南奈は頷く。続いて空岡が南奈に話しかける。
「あのね、南奈ちゃん。博士を見ていない?」
「え?いいえ、見ていないです。奥の厨房にはいませんでしたが…」
「という事は、まだ礼拝堂にいらっしゃるみたいね」
「どうもそうらしいな」
デュランはそう言うと、P塔に向かう扉を開けた。
「…何か嫌な予感がするのは、私だけか?」
その言葉が私を凍りつかせる。…もしかしてそれは…。
「皆で行こう」


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