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ほしのうた

やや長いプロローグ

目が覚めると、7時だった。「でも、今から二度寝すると絶対に遅刻するしなぁ…」そう思って美寛は起きだした。美寛はまず、鏡を見る。そこにあるのは、いつもの自分の顔。私立深月高校3年生の、雪川美寛の顔だ。ただいつもより少し目が細くて(美寛はその状態でも、普通の女子高生よりは目が大きいと思っている)、そして寝癖がついている。具体的に言うと、頭の上のほうに、変な方向に向いている毛がある。こういう毛を「アホ毛」といって、マンガで描かれる少女に関して言えば萌えるための一つの十分条件らしいが、いかんせん、現実の人間では寝癖としか認識できない。美寛の髪は、今は黒。以前は茶色に染めていたが、今年に入ってから黒に染め直した。ちなみに鏡の横には、恋人の写真が貼ってある。本当は絵だったのだが、恋人に「美寛、ヘタだな…全然似てないよ」と言われたのがショックだったらしく破棄されていた。ちなみにこの写真は、そのとき自分を怒らせた代償として、無理やり嫌がる恋人を撮ったものである。しかしその割には、彼は格好良く映っているのだった。…さて、美寛はとりあえず寝癖を直して、階下へと降りていく。今まで触れなかったかもしれないが、彼女の部屋は2階にある。
「あ、みひろちゃん、おはよ〜」
居間に入ると、そこには雅がいた。雅と言うのは、美寛の姉にあたる。白龍大学という地元では有名な私大の3年生で21歳。ただ、一見するともう少し年上に見える。それは彼女が老けているというのではなくて、大人びて見えるのだ。もっとも、21歳と言えば既に成人しているわけで、大人びていると言う表現はいささか適さない。雅は白の半袖のブラウスに黒のロングスカート。もともと、彼女はモノトーン系の色を着ていることが多い。それは、派手な色の服を着なくても十分に人目を引けるからかもしれない。美寛は、今自分が着ているピンクのパジャマと見比べて、少し不機嫌になる。しかし、「少し」という副詞を添えられる事自体が、美寛にとっては大きな進歩といってもいい。以前はこんなにも完璧な姉に対して、いつも引け目を感じて、反発していたものだ。そんな自分を今、客観的な視点から評価できるようになったことに、美寛は少しおかしくなった。
「お姉ちゃん、おはよっ…って、パパはともかくママは?」
「ん?ママはね、まだ起きてこないの〜。…あ、ごめんね、もう行かなくちゃ」
雅はそう言って、黒のカバンを手にとって玄関のほうへと向かっていく。動作は一般的に解釈すれば優雅だが、昔の美寛風に悪く言えば「どんくさそう」でもある。美寛は雅を見送ってから、自分の朝食を準備する。
ちなみに美寛と雅の父は隆臣という。年齢は40歳。…というと雅は彼が19歳の時の子である、という事になるが、もはや近年では驚くほどのことではあるまい。職業は警察官。そのため不定期に家を空ける。先ほど美寛が「パパはともかく」と言った主たる理由はここにある。美寛は(珍しく、と言えてしまいそうなのは悲しい状況だが)父親のことが今でも好きだ。その理由は、美寛の推理小説好きにあるかもしれない。彼女は父に、よく実際に起きる事件の話をせがむのである。もちろん美寛の辞書に「守秘義務」という言葉はない。…話を隆臣に戻そう。隆臣の階級は警部。そして捜査一課だ。彼の年齢を考えれば、当然それなりのキャリアを持って警察庁に所属している事になる。不可能でこそないが、現実的には子供を育てながら大学を卒業し、いわゆる「キャリア組」になるという事は非常に困難だろう。それを可能にしたのは、もちろん彼自身の才能と努力もあるだろうが、妻である由奈絵の援助も大きい。二人は同級生で高校の頃から親交を深めており、高校を卒業してすぐに結婚した。由奈絵は休学も利用しつつ短大に通い、卒業後はパートなどをして隆臣を助け、雅とその数年後には美寛を、育ててきたのである。もちろん、隆臣と由奈絵の双方の両親による甚大な援助があったことも記しておこう。その由奈絵は、朝が遅い。これは美寛にも遺伝している。雅が毎朝規則正しく起きられるのは、おそらく隆臣の遺伝だろう。
美寛は冷蔵庫から牛乳を取り出す。ちなみに彼女の身長は154センチだから、どちらかといえば低い方だろう。もちろん、こんなところで「背を伸ばすために牛乳を飲んでいる」といった因果関係を見つけ出そうとするのは無意味である。美寛はトースターにトーストを入れる。美寛はトーストを見るたびに「何でトーストってこんなに薄いんだろう?」と考えてしまう。修学旅行で関西に行ったときのホテルのトーストが、思いのほか厚くて少し感動した。あれはホテルだったからなのか。しかし、一般的に西日本には、8枚入りのトーストなんて売られていないらしい。この情報の真偽は分からないが、少なくとも美寛はそう信じていた。以上の記述から自明だが、美寛の家は東日本にある。
彼女は何気なくテレビをつける。そこに映し出されたのは、最近よく名前を聞く女優だった。美寛はその女優のことを思い出す。確か…岸野麗夢。レムと言う名前が、何となく綺麗だと感じる。きっと彼女は、眠っているときによく夢を見るのだろう。テレビのテロップによると22歳。黒いストレートの髪が揺れている。肩にかからないくらいだ。色白で、目は何か大きなものを抱え込んでいるような、言うなれば真面目な目をしている。白の長袖のブラウスの上に、オレンジ色のオーバーオールのような服を着ていた。…もちろん、オーバーオールと称するにはセンスの良すぎる服なのだが、残念ながらこのような服を何と言えばいいのか分からない。下がズボンでなければ、ジャンパースカートと言えるものだ。
「岸野さん、ご結婚おめでとうございます!」
その言葉に美寛は少し驚いた。「えっ…?22歳で、結婚…!?」しかし、すぐに思い直す。それより4歳も早く結婚した実例となる人物が、2階にある美寛の隣の部屋で眠っているではないか。テレビはそんな美寛の思考に注意を向ける気もなく、ただ自慢げに映像を写し続けている。岸野が小さな声で「ありがとうございます」と言っていた。
「雨宮さんとは、どのように呼ばれあっているんですか?」
別の芸能リポーターが質問する。「別にいいじゃないの、そんな事聞かなくても…」と思いながらも、テレビに引き寄せられている自分を美寛は確認して苦笑する。そして雨宮と言うのは俳優の雨宮優希のことだろう、と美寛は思った。後で友人に聞いたところ、雨宮と岸野はかねてから噂のあった二人だそうだ。雨宮は27歳。若い女性が真っ先に好きな俳優に挙げるほど人気のある人物ではないにしても、整った顔立ちをしている。サングラスをかければ理想的なハードボイルドの刑事に見える。それに彼は(これも「珍しく」と言えそうなのが悲しいが)この世代の俳優の中では非常に演技力がある。きっと地味ながら、生涯この世界で通用するだろう。ただ、美寛はあまり、この手の話に詳しくない。むしろあまり知りすぎたくない、とも思う。しかしテレビに引きつけられている自分は、歴然とそこにいるのだ。一種のジレンマである。
「いえ、あの…お互いの、下の名前で…」
岸野の曖昧な返答にも、リポーターたちは大げさに反応する。この映像を見た限りでは、リポーターと言うよりはむしろ野次馬に近い。岸野はどうも、縮み上がっているような印象を受ける。それを、女優業をしているものとしては情けないと捉えるか、とても清純な反応だと捉えるかは視聴者次第だろう。ちなみに美寛は、人間としてむしろ当然の事と捉えていた。
「彼のどこが特に好きですか?」
「えっと…クールで、頭がいいところです。それに、かっこいいですよね。彼は…その、私の数少ないできることでもあるんですけど…『フルートが吹ける女の子が好きだ』って…。それを聞いて、私、ますます…その、彼のこと…あの、もういいですよね?」
美寛はそれを聞いて「ああ、じゃあきっと麗夢さんは彼のことを『ユウちゃん』って呼んでいるんだ…」と思う。このように、すぐに論理を飛躍させすぎるのは(しかも極めてイメージ的な論拠から)、美寛の悪い癖と言える。
「指輪を見せていただけますか?」
その質問に…いや、質問と言うよりは口調の丁寧な命令形だろう…岸野は微笑んで左手を上げた。中央に大きな赤い宝石が光っている。美寛は単純に「羨ましいなぁ」と思ったが、直後に少し不審なものを見つけた。…岸野の左手首に、赤い糸が結ばれていたのである。
「綺麗なルビーですねぇ」
その言葉に岸野は当惑していた。やはり、何か女優と言うには…良く言えば純朴な、悪く言えば未熟な印象を与える。
「あ、いえ、これはルビーじゃ…あ、はい、彼が、こっちの方が私には似合うよって、そう…言ってくれたので…」
「あの、ところで…その糸は?」
リポーターが不思議そうな顔で、糸のことを尋ねる。これにだけは美寛も同感だった。
「あ、えっと、これは…ごめんなさい、ただのおまじないです」
「おまじない?」
「あ、はい…その…相手に、左の手首に赤い糸を結んでもらって、自分も相手の左の手首に赤い糸を結んであげて…それをしたまま眠ると、二人が同じ夢を見る、そしてその夢の中で会えるっていう…その、ごめんなさい…」
「へぇ!じゃあ、これってもしかして、雨宮さんに結んでもらったんですね!?」
「えっと……はい…」
美寛はそこでテレビを消した。ここで一つの世界が遮断される。所詮、世界とはそんなものだ。美寛は音を立てて飛び出したトーストを皿の上に載せながら、心は既に自分だけの世界に飛んでいた。そんな彼女の言葉は、自然と外にあふれ出る。自己の世界の確認、そして表現だ。これらを一般的には「独り言」と言う。
「ふ〜ん、そんなおまじないがあったんだ…。同じ夢を見て、夢の中で会えるなんて…なんか、すごいイイかも!…そうだ、たぶん裁縫箱を探せば、赤い糸くらいあるはずで…。うん、疾風にお願いしよっ!」

同日、放課後。私立深月高校の正門から、二人の学生が並んで出てきた。一人は雪川美寛。そして、もう一人は男子学生である。彼の名前は月倉疾風。美寛の幼なじみであり、現在の美寛との関係は恋人である。もちろん、美寛の部屋の鏡の横に貼ってある写真に写っている人物だ。身長は169センチ。顔立ちは少々影を落としている印象があるものの、非常に整っている。おそらく雨宮優希よりも美男子だろう。さらさらした前髪は、もう少しで目にかかりそうだった。今は左手をズボンのポケットに入れ、右手は美寛の左手に握られている。表情にはあまり変化がない。良く言えば冷静、悪く言えば無愛想だ。しかし、美寛はそんな彼の表情を的確に見分けることができた。それは、美寛が疾風と長い間一緒に過ごしてきたから、という理由が主だが、もちろんそこには美寛が疾風のことをとても好意的に思っているという背景が存在する。いや、むしろ二人の関係は、友人間では「ノロケ」「バカップル」以外の何物とも認識されていない。しかし美寛と疾風は、あまり気にしていない。自分たちだけに通じる愛情が周囲に与える影響をわかっていない、とも言えるかもしれない。しかし、そんな関係を考慮していてはきっと恋愛など成立しないだろう。
…さて、私立深月高校は小さな丘の上にある。つまり高校に行くためには坂道を通る必要があるのだが、この坂道を下りきったところで、美寛は例の件を切り出した。
「ねえ、疾風?お願いがあるんだ〜」
「…?どうしたの?」
疾風は怪訝そうな顔をする。といっても、これは一般論だ。つまり、美寛にとって現在の疾風の顔が意味するところは「興味がある」なのだ。このあたりは、やはり美寛でないと区別ができないだろう。美寛は赤い糸を2本取り出した。今朝学校に来る前に、昔家庭科の授業で使っていたソーイングセットから抜き取ってきたものだった。
「これをね、私の左の手首に結んで欲しいの」
「…は?何で?」
「いいから!ね?結んで」
疾風は言うとおりに、美寛の手から糸を一本だけ手に取り、美寛の左手首に結ぶ。綺麗な蝶結びだった。この場合の「綺麗な」とは、よりシンメトリーに近いことを指すのだろう。
「これでいいの?」
「うん!それで…次は疾風の番。ね、左手出して」
疾風は何も言わずに左手を差し出した。美寛は、嬉しそうな顔で赤い糸を結びつける。疾風がしたものに比べれば、彼女の蝶結びは綺麗でなかった。
「ねえ、美寛…それでこれは、一体、何?」
美寛が糸を結び終わったところで、疾風は尋ねた。この行動はおそらく、人間として順当だろう。いや、ここまでその質問を先送りにした事自体が、なかなか忍耐力のいる行動かもしれない。一方の美寛はうっとりとした表情である。
「え、あのね〜、おまじないなんだって。その、恋人同士で、相手の左手に赤い糸を結んであげるの。それで、今から寝るまでずっと、それを外さずに過ごして、それで寝るの。そうしたら、二人とも同じ夢を見て、しかもその夢の中で二人が出会えるんだって!」
疾風は思わず苦笑いをする。
「もう…そういう事か。ってことは、風呂に入る時も外すなって事?」
「うん、もちろん!外しちゃダメよ」
「分かったよ、美寛。ただ、期待するなよ?俺、あんまり夢は見ないから…」
そう言って疾風は少し俯く。美寛は疾風の顔を覗き込んだ。これは二人を観察していれば、よく目にする光景の一つである。
「大丈夫だよ、疾風!私が疾風の大好きなメイド服を着て、夢の中に出てあげるから〜」
美寛の言葉に、疾風は少し顔を紅くする。疾風は少し笑ってから…おそらく照れ隠しだろう…話を続ける。
「それにしても…」
「な〜に?」
「こうしてほとんど毎日学校で会ってるのに、まだ会い足りないの?」
これは文句ではなくて、一種の冷やかしだ。ちなみに美寛は文系で疾風は理系であるものの、クラスは同じである。
「あ!…疾風、もしかして…私と毎日顔を突き合わせるの…イヤなの?」
内容に比して、美寛の声は明るい。それはきっと、これがある意味冗談であることを、美寛自身が分かっているからでもある。案の定、疾風の返事は全く刺々しいものではなかった。
「違うよ。もし夜も一緒にいたいなら、一緒に住めばいい…って思っただけ」
「え……えええっ!!?」
途端に美寛は、先ほどの疾風と同様に…いや、それ以上に顔を紅くする。ひどく意外な気もするが、疾風にはこのように気障ともとれる事を、真顔で言う癖がある。その言葉は非常にメロドラマティックでもあるが、美寛のように疾風に夢中の人間には効果は抜群だ。それはいわば、美寛にだけ効くフェロモン、といったところだろう。もっともフェロモンとは、ある特定の対象にしか作用しない物質である。疾風風に言えば「イクシロの実」だ。
「は、疾風ってば…!!今の、本気?」
「現実的には不可能だと思うけどね。気持ちは本気」
その言葉を聞くとすぐに、美寛は疾風に抱きついた。この情景もやはり、美寛と疾風の二人に関して言えばきわめて自然である。しかし敬虔な常識人であれば、気の短く、しかも恋に関して幸薄い若者に、二人が後ろから蹴り倒されないようにと祈りたくもなるかもしれない。とにかく、傍目に見ても、またどれだけ婉曲的に見ても、美寛と疾風は立派な恋人である。
そして、そんな二人にも夜が訪れる。夜という時間は、子供が夢を見、恋人が愛を語り、大人が疲れを癒し、月や星が輝く時間だ。そこではすべてが吸い込まれる。そして、夢が始まる。
さあ、おいで、新しい世界へ。
そこから、新しい幕が、開けるのだから。


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