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キス ―高本謙の過去―


本を三段積み上げる事は、やってみると分かるのだが、可能である。ある男の部屋の片隅には、三列三行三段に本が積み上げられている。その一人は、著者の事でもう一人は、高本謙という中学生である。小学五年生頃から、古本屋に行っては文庫本を買い漁り、読むのが買うのに追いつかなくなった、というのが、高本少年の現状である。著者もそうなのだが、買い漁り始めたのが、中学二年、つまり現在の高本少年と同じ年齢だった。古本屋に行くと、衝動買いという、全く無縁だと思っていた病に悩まされる事になる。現代文学全集が一冊100円で置いてあったりすると、読みもしないのに買って帰ったりもする。著者の病気の事なんかはどうでもいい。高本君が本を買うようになったきっかけを説明しよう。きっかけは、小学生時代の女子児童の言葉。
「何、読んでいるの。」
「えっ、『アンクル・トムの小屋』っていう本だけど。」
小学生の頃、高本は読書に興味がなかった。教科書以外はまともに読んだ事がないものだから、好きか嫌いかもはっきりしなかった。五年生の時、父親の薦めで、仕方なく『アンクル・トムの小屋』を読む事になり、学校でも読むようにしていたのだった。
「ふ〜ん。そうなの。私ね、読書家の人って大好きなの。」
今にして思えば、この言葉のいう「大好き」は人間的に「大好き」という意味であって、恋愛感情の入った「大好き」ではないのだろうが、高本は後者の意味だと理解してしまった。そして、この少女に「大好き」と思ってもらうべく、高本は読書家への道を進む事になる。高本が両親から、お小遣という物を貰うようになったのは中学に上がった時である。実は、小学二年生の時お使いに行って750円落としてしまい、以来お金を持たせてもらえなかったのだ。従って小学校時代は、学校図書館の本を借りまくった。卒業式の時に、図書館担当の先生から聞いた話によると、五年・六年と二年連続貸し出しカードが5枚を突破したのは、高本が始めてらしい。2年間、高本少年は一人の女子に「大好き」と思われる為だけに、健気に紙の束を消化していくのだが、言った本人はそう深い意味があって言ったわけではない。高本君が自分の為に休み時間の殆どを読書に費やしている事なんか知る由も無く、消しゴムに相々傘なんかかいたりしていたのだった。しかも、相手の名前の処には、高本が大嫌いだった奴の名前が書かれていた。高本はそんな事は知らないから、この女子の為に毎日読書に励んでいたのである。
 ところで、著者の買い漁りのキッカケはというと、中学に入った時の図書館ガイダンスである。その際、強制的に一冊の本を借りさせられたのが、著者の運命を変えた。天野祐吉さんの『もっとマジメにやれ』という本を借りたのだが、これが中々面白い。それ以来、著者の場合は、「面白い本」「楽しい本」を求めて現在に至っている。なんて事はやっぱりどうでもいいのだろうが、高本少年が何を求めたか、というと「心動かす本」である。著者とは違って高本君はマジメだったわけですな。著者も、「もっとマジメにや」らなくちゃいけないのかも知れない。


 中学二年になった時、高本には自分に起こった奇跡が信じられなかった。小学五年の時以外、一度も同じクラスになった事のない女子が、自分の隣の席だったのだ。名前は相川優美、高本は、彼女に「大好き」と思われる為に読書量が増えたのだ。といっても、彼女はきっかけでしかない。高本は、紙の集合体の中にある面白みを見事に見つけ出していたし、もはや元来の不純な動機なんかは忘れかけていた。といってもやっぱり相川さんは魅力的らしく、恋愛感情の方は全く忘れていなかったのだが、相川はドンドン近付き難い女子になっていった。相川は、落ち着きがあってクールな女子、高本は落ち着きがなくて不器用で、しかも少し不気味な男子だった。相川は、男子生徒にモテたし、高本はモテなかった、わけでもない。なぜか高本の周りにはいつも、底抜けに明るい少女がいた。
「ねえ、謙ちゃん。本ばっかり読んでないで新聞も読んでよ。」
と、鎌田沙耶香という新聞委員会の女子に言われ
「一緒に水遣りに行こう。」
と、神崎愛という女子に言われ、なんだかんだと誘われたり、やらされたり、手伝わせられたりした。高本は、からかわれているか、それとも、文句も言わずにやるから頼みやすいのか、どちらかだと思っていた。
 相川優美が突然
「高本君って誰から、謙ちゃんって呼ばれる。」
と聞いた事がある。
「え〜と、渡辺君と、鎌田さんと神崎さんと、橋本さんと、影山さん、くらいかな。」
「渡辺君は別としてね。他の4人は、高本君が好きだって、知っていた。」
「えっ、アハハハ。そんな馬鹿な。影山さんなんか、僕の前にいきなり出て来て「大嫌い」なんて言ったくらいだよ。」
「ホントに嫌いな人に、大嫌い、なんてわざわざ言わないわよ。ホントに知らなかったの。」
「知らないも何も、今だって信じかねているよ。」
「そう。でも、もしホントだとしたら、嬉しい?」
「少しはね。」
「どうして。」
「どうして、って。僕は人に好きって思われた経験がないし、バレンタインデーに義理チョコも貰えなかった人間だからね。今年は2月にチョコが食えるや。」
高本は、ちょっとおどけて見せた。
「それだけ。」
「それだけ、って。」
「チョコがそんなに嬉しいの。」
「だって美味いよ。」
「もっとさ、鎌田さんみたいな可愛い人に好かれるのは嬉しいとか、神崎さんみたいな美人に好かれるのは嬉しいとか、そういうの、ないの。」
「別に、ないけど。」
大体、高本は11歳の時から相川にずっと惚れているのだから、そんな感情あるわけないのだ。
「じゃあさ。私みたいなのが高本君の事が好きだったとしても嬉しいわけ。」
突然聞かれて参った。そりゃ嬉しいには違いない。
「うん。」
「チョコが貰えるから。」
そんなわけがない。別にこの際チョコはどうでもいいのだ。
「そう。」
高本はそう答えた。高本は親以外に始めて嘘をついた。


 高本が女子と一緒に帰る、というのは奇妙な光景だったのだが、だんだん自然になってきた。相手は、鎌田沙耶香だった。高本は、あまり友達がいなかった。そのせいなのか、男女関係なく、友達だった。友達の範囲を男だけにすると、量が少なすぎる。量の問題ではないと、わかってはいても、そう思ってしまう。世の中には、どんなに友達みたいだろうが、いずれ女友達は彼女になり、男友達は彼氏になる、と信じきっている人もいるが、高本はそんな事はない、と思っていた。男女間に友情は生まれる、と信じたかった。鎌田沙耶香は中でも仲の良い友達だった。鎌田は、聞き役に徹底していた。いつも別れ際に「高本君の話は面白い」と言っていた。
 「優美の事だけど。」
帰り道、珍しく、鎌田の方が言い出した。
「相川がどうかした。」
「塚本君と付き合っているって。」
「ふ〜ん。」
「あんまり関心ないのね。」
内心は大有りだ。惚れた女が自分の大嫌いな男と付き合っている。ん?付き合う?付き合うってそもそもどういう意味だ?
「いや、その、付き合うってのが果たしてどういう意味なのか、分からないからさ。」
「一つ教えてあげる。」
「何?」
「優美ね、嬉しそうに言っていたの。塚本君とキスしたって。」
「キスねぇ。」
一瞬、ほんとに魚が思い浮んだ。
「キスって、始まりは何だったか知っている?」
高本が言った。
「知らない。」
「ある説によると、未だ餌を自分で食べられない雛鳥に、親鳥が口渡しで餌を食べさせているのが、始まりだって言われてるんだ。」
マジメな話しか出来なかった。
「ふ〜ん。」
結構、感心されたらしい。
「ところでさ、私とキスしてみない。」
と言われたのには驚いた。
「は?」
「いいでしょ。」
「いや、その。」
「いいでしょ。」
「う〜ん。」
「いいでしょ。」
というと、いきなり高本に飛びついて来た。
「わぁっ。ちょっと待って。」
そういうと、高本はゆっくり鎌田に近付いて、額にキスした。鎌田は物足りなそうだった。
「額のキスは、友情のキスなんだって。」
高本はいつか読んだ事を言った。
「僕は、あんまり友達がいなかった。だから、男だろうが女だろうが、同じような友達だと思っている。ただの友達だったのが、相手が異性だからって理由で、いきなり恋人になったりする感覚には、ついていけないんだよね。」
「でもさ、私はずっと、高本君が好きだったよ。」
「そうなの。でもさ、やっぱり友達の方がいいよ。僕は。」
「高本君、いつか本で読んだって言っていた。「いいお友達でいようと思って別れた女とホントにいいお友達でいるのはよほどの馬鹿だって。」私もよほどの馬鹿じゃないの。」
「うん。」
家に帰って、高本は考えた。自分は鎌田を振ったのか、それとも振られたのか。どちらとも言えるような気がした。


 「沙耶香の事だけど。」
学校にいくと、相川に言われた。
「「高本君とキスした」って悲しそうに言っていたわ。一体どんなキスしたの。」
「額に。」
「それだけ。」
「うん。」
「ふ〜ん。額にキスされたんじゃ物足りないのかしらね。私なんかしたことないから、額でも十分なのに。」
「えっ。」
「何よ。驚く事ないでしょ。人の勝手じゃないの。」
「いや、そうじゃなくて。昨日鎌田さんが言ったんだよね。相川さんが塚本君とキスしたって。」
「全くの嘘。沙耶香、嘘ついたんだ。」
高本には分からなかった。わざわざそんな嘘をついた鎌田の気持ちが。
「高本君って結局誰が好きなの。沙耶香じゃなかったみたいだけど。」
「僕の席から、後へ2右へ3左へ4前へ3後へ1。」
正直に言おうという思いはどこかにあったのだろうが、婉曲的な表現しか出来なかった。暫く相川は机を指差していた。
「私?」
「そう。」
小声で答えた。
「いつから好きなの。」
「小五の時から。」
「アハハハハハハハ。いつから「勘違い君」になったの。どうせ、沙耶香とキスなんかしたから、自分はモテるなんて思ったんでしょ。だから私をからかっているのよ。」
「違うよ。」
「違わない。前に、チョコ以外に好きって言われて嬉しい理由はない、って言っていたじゃない。小五の時から好きだったんなら、他にもある筈でしょ。高本君、いつから、塚本みたいになっちゃったの。」
「塚本みたい?」
「そう、塚本は女子をからかってばっかり。男子は大抵そうね。自分はモテるって気付くか、勘違いすると、直ぐ女子をからかうようになる。」
「そんな。」
「塚本がね、私の友達にあなたと同じような事言ったのよ。「俺の席から右へいくら左へいくら後へいくらの席の人が好き」なんてね。友達はすっかり舞い上がったわ。」
「僕は塚本が嫌いだ。」
「同類だから嫌いなのよ。」


相川優美の誤解は解けないまま、1週間ほどたった。
「高本君!!」
鎌田沙耶香の元気な声が聞こえた。
「ねぇ、優美の言っていた「舞い上がったバカな女子」って誰か知っている?」
「えっ?」
「あれね、私なの。」
「鎌田さん。」
「最初ね、私はマジメぶって本ばっかり読んでいる高本君をいじめてやろう、って思っていたの。」
「そりゃ、ひどいよ。」
「でも、塚本に騙されて、っていうか無理やりキスされたのね。」
「それで、前にバカバカしい事言っていたんだ。」
「バカバカしくなんかないわ。私は本当に好きな人とキスしてみたかった。」
「いじめようとした相手が本当に好きな人?」
「ずっと近くにいると、だんだん魅力的に見える物なの。」
「それじゃ、申し訳ない事したのかな。」
「ううん。高本君は優しかった。でも、高本君って優美が好きだったんだね。」
「そう。正直に言ったら嘘つきにされちゃった。」
「しかも塚本の同類なんてね。でも、それでも優美の事好き?」
「多分。」
そういうと、鎌田は答えた。
「また振られちゃった。」


 中学を卒業するまで、高本は相川の事が気になっていたが、誤解が解けることはなかった。嘘はいけないな、と本気で思った。高本の行く高校は、元来中高一環校(でもって男子校)のL学園である。高本は、L学園に編入生として入学する事になっていた。
L学園には、中田丈一郎という男が、中学から在籍している。高本はこの男に会うまでは、高校入学以来、恋愛恐怖症だった。といっても、中田が恋愛の大得意な男だったわけではなく、むしろ逆だった。その話は、また別の機会にするとして、今はただ、高本謙が嘘の付けない男として、高校に入学する、というところで、話を止めておこう。

-----著者あとがき-----
恋愛小説を描いてみたい、と思うようになったのは、鎌田敏夫の本に影響されたからである。鎌田敏夫と言う人は(さんまとしのぶの結婚のキッカケになった)「男女七人夏物語」や「金曜日の妻たちへ」などの原作や脚本を手掛けた人である。色々なところで公開している事だが、著者には恋愛経験が殆ど無い。なけりゃないで、放っておけばいいのに、欲が出て疑似体験だけはする事にした。鎌田敏夫作品を3作程読み、姫野カオル子という人の本も1作読んだ。やっとこ、恋愛小説のスタンダードな枠組みが分かってきた。それで、何とか形にしてみたのが、初の恋愛小説である本作だ。
『風葬の城』を描いた時、不安だったのは、友人虹星旅者君の評価だ。多分、ここまで懐疑的な作品だと、彼の評価はさぞ悪かったろう。という事で、2作目を『星空少年と未だ見ぬ小川』という爽やか系に切り替えたのだ。ところが、またもシビア路線。嗚呼!!
 次こそ爽やか系で行こう!!
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