きみのて ぼくのて
7 Dear My Friend「あっ、知之!」
眩しい世界。その僕の視界に入ってきたのは、よく見知った顔だった。
「かあ、さん…?えっと…此処は…?」
僕は身体を起こそうとした(と同時に自分が横たわっていることに気がついた)。が、母の手はそれを制する。
「あ、起きなくていいわよ、点滴外れちゃうから。此処は、病院よ」
「病院…?」
僕はぼんやりと、記憶を取り戻し始めた。そうか、僕は…
「ええ、あんたがお風呂場で血塗(ちまみ)れで倒れてるのを、結城君が見つけて救急車呼んでくれたのよ」
「えっ…」
僕はゆっくり視線をずらした。そこには、相も変わらぬ笑顔を見せる男が居た。
「おはよ、トモ」
「望…ちゃん…?!」
ぼうっとした頭に、思わず逃げ出したくなる程の衝動が襲い掛かる。
「あー、だから動いちゃダメだってば、トモ」
彼は、そんな僕の心を知ってか知らずか、顔色を変えずに僕に近付き、真白なベッドに腰掛ける。
「それにしても、トモってホントにおっちょこちょいさんだよねー」
「えっ…?」
僕は耳を塞ぎたくなった。まだ彼は、僕を莫迦(ばか)にするのだろうか。
そんな思考を巡らす僕の横で、彼は「あの手紙」を取り出した。
「これさ、どう見てもボクの字じゃなくなあい?」
「え…」
僕は顔を徐に動かし、手紙に目を遣った。言われてみれば、筆跡が違うような気が…
「それに、もしホントにこんなコト思ってるんだったら、こんなまどろっこしい手紙になんかしないでしょ。ボクだったらそうだなー、直接面と向かってぶちまけるかな。こんな突き放し方するような付き合い方するなんてこと、ボクはしないよ。だから、この手紙はボクが没収しとくね」
…そっか、そうだ。
僕は、徐々に活性化し始めた頭の中なのに、しっかりとそれを理解していた。目の前で手紙を仕舞っている結城 望は、僕が付き合ってきた「望ちゃん」は、そういう人間だったんだ。
寧ろ、そんなことにも気付かなかった自分が恥ずかしく悔しく思えてきた。
「あと、もう1個おっちょこちょいなのはさ、ただでさえ手首切るのって死ぬ確率少ないのに、トモはその手首をお湯の入った湯船につけなかったでしょ?お湯につけないと、失血死する前に血が固まっちゃうから、余計に死ねないんだよ。まぁ、トモがそこまで知らないでくれたおかげで、ボクはトモを助けてあげられたんだけどねー」
「そ、そうなんだ…」
その時、望ちゃんは急に立ち上がった。
「さーて、トモも意識を取り戻したことだし、ボクはそろそろ帰るね」
「えっ、望ちゃん…?」
「ボク今からやんなきゃいけないことあるし、お母さんがついてるなら大丈夫でしょ?明日また来るからさ」
望ちゃんはそう言いながら、ドアの方へ歩いていく。
「あ、そうだトモ、一つ言い忘れてたんだけどさ。ていうか気付いてたと思うんだけど、トモを助ける時に制服汚れちゃったから、お母さんに頼んでトモの服持ってきてもらって着ちゃったんだ。今度洗って返すから。じゃ、お大事にねー☆」
…あ、今気付いた。と思った頃には、望ちゃんはもう病室から出て行っていた。
病室の扉が閉まる音を聴いた直後、僕の膝元に急に重しがかかった。
「…え、か、母さん…?」
横になったまま眼を動かすと、母が僕のベッドに頭を乗せ、突っ伏しているのが見えた。
「はぁー…良かった…」
その声には、緊張からの開放感のようなものが滲んでいた。
そして母は、僕の方に疲れ切った顔を向ける。
「…知之、あなた、手首切る前に、家の電話から私のケータイに電話かけてきたわよね」
「え、う、うん…」
あの数十分の記憶を思い返すのが苦痛でなくなっていたのは、きっと望ちゃんのお陰だろう。
「私ね、出版社で打ち合わせしてたの。で、終わってケータイの電源入れたら”自宅”からの着信があって、何かあったのかなと思ってかけ直そうとしたら、ちょうどそのタイミングでまた”自宅”からの着信があったの」
「え…僕、かけてないっスけど…」
「知ってるわよ、私出たんだもの」
苦笑して言う母。
「そしたらねー、結城君だったの。電話のとこにケータイの番号貼ってあるの見てかけてきたみたいなんだけどね。『お母さん、今家の近くに居ますか』って言うから、結構遠いって答えたら、『じゃあ、中央病院まで来てください』って。どうしたの?って聞いたら、『知之くんが自殺図ってて、今救急車呼んだところなんです』って」
「そんなことが…」
「しかもね、その電話の前後で結城君、救急車を呼んだり応急手当をしてくれたりしてたの。さっき彼、リストカットの死亡率は低いって言ってたけど、お医者さんは『もっと病院での輸血が遅れてたり、適切な応急手当がなされてなかったりしたら、もしかしたら命を落すか或いは何かしらの後遺症が残っていたかも知れない』って仰ってたわ」
ふっと、母の視線が少し下向きになった。
「…電話切った時ね、すぐに病院に向かおうっていう気持ちと同じくらい、その場で座り込んでしまいそうな程の、吐き気にも似た負の感情が湧き上がって来たんだ。時間から見て、その前の不在着信は知之がかけたものだと予想がついたの。ということは、その電話は、知之が私に最後の言葉を遺そうとしたか助けを求めようとしたか何かだったんだろうと思って、その電話を取れなかった私は…って」
僕は、母の顔を直視するしか出来なかった。
「それでも何とか病院に来て、手術の間結城君とずっと待ってたんだけど、その間もずっと考えはぐるぐる渦巻いていたの。『ああ、もし此処で知之が死んだら、その最後の引き金は私が引いたことになるんだ』とか、『そうなったら私も後追い自殺してしまおうか』とか…でも、そんな時でも結城君がね、ずっと支えてくれたのよ。『絶対大丈夫ですから』って、あの爽やかな笑顔で。本当は彼だってはち切れそうな不安に怯えてたかも知れないのに」
母は、顔をゆっくり動かして白い天井を仰いだ。そして腕で、目元を隠した。
「本当に…結城君があなたの友達で、本当に良かった」
その声は、揺らいでいた。
暫く無言の時が流れた。
そして、やけに落ち着いた声で、母が言った。
「もう二度と、死のうとか、自分の身体を傷つけようとか、思わないでね」
僕は、身体を起こした母の姿を見ていた。
「少なくとも、私と結城君の2人は、それで哀しむんだから。それに、折角この私がかわいくかわいく産み育ててきたんだもの、生みの親の私の許可無くそんなことするなんて、もう許さないからね」
母は、微笑んで言った。
僕は、母の強さを感じながら、小さく頷いた。