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かぜのうた

第5章 衝撃の烈風

「気付いたか、美寛?」
ふと遠くからそんな声がした。聞きなれた、あったかい声だ。でも、なんか、違う。疾風の声よりも、ちょっぴり低い。それでもその声は、私を安心感で満たしてくれる。私が薄目を開けると、そこには口ひげを生やしたスーツ姿の男性が立っていた。
「ん…え、パパ…?」
そうだ、パパだ。パパの名前は雪川隆臣。黒い髪と黒い口ひげ、優しい笑顔…。誰に似ているかって言われると、昔好きだったマンガの、「大貴くんのお父さん」が真っ先に思い浮かぶ。要は、すっごく優しいお父さんだ。パパはこの町の警察署の巡査部長だったか警部補だったかしらないけど…私はそんな、面倒くさい役職には興味ない…とにかく、警察官だ。そういえば「大貴くんのお父さん」も警察官だっけ。こんな事を考えながら、私はだいぶ意識を取り戻していた。あぁ、そうだ、誰かが屋上で死んでいて、私は気を失った。誰かが死ぬなんて事件が起こった以上警察が来るのは当然だ。そしてパパはこの町の警察官なんだから、パパがこの場にいるのは全然不思議なことじゃない。でも、そんな事より大事なのは…。
「パパ…。ハヤ…月倉くんは?」
私がそうきくと、パパは何も言わずに向こうを見て手招きした。そして、すぐにどこかへ行ってしまった。まぁ、それは仕方ない。パパもいわゆる「初動捜査」で忙しいだろうから。
「気がついたか、美寛?」
疾風はすぐにやってきてくれた。もう、お姫様を守る騎士としては落第寸前だよ、とか調子のいいことを考えてしまう。それだけ私の意識も回復したってことだ。
「あれから…私、どうなったの?」
「どうって…。美寛があんな大きな悲鳴出すから、下の階から何人かがビックリして駆けつけてきて。扉を開けようとするから、今は開けないでくれ、救急車と警察を呼んでくれ、って頼んで…。20分くらいしたら美寛の父さんたちが時計塔側から来たから、俺は警察が死体を片付けるまで待って、それで校舎の出入り口から美寛をこの音楽室まで運んで。それで、保健の先生がいなかったから、小沢木先生に手伝ってもらって美寛を介抱してた」
そうだったんだ…。道理で、今私は机の上に寝かされていた。…あれ?1つ、大事なことを思い出す。
「ねぇ、ちょっと!今何時?」
「今?1時20分をちょっとまわったところ」
それを聞いた私はショックだった。もう「時計塔での約束」の時間をとっくに過ぎている。これじゃ何のためにこんなお正月休みの間から学校に来たのか分からないじゃない。疾風も多分、そんな私の気持ちを察してくれたのだろう。
「さっきの噂話のことを言ってるのか?だったら、違うと思うぞ」
「違う?何が違うっていうの?」
疾風はわざと、私から眼を背けた。
「白沢から聞いたけど、あの噂は彩芽が流した、ただのデマだとさ。俺も最初に聞いたときに新手の都市伝説のような気はしたし」
「デマ…」
ああ、デマだったんだ。私も何であんなことを信じたんだろう、と今更自分がバカみたく思えてくる。それじゃ私は、暗に疾風に告白したも同然じゃない。そんなことを今、疾風の目の前で考えている。ひとしきり自分の羞恥心を感じて、その次に沸いてきたのは彩芽への怒りだった。
「もう、ヒドイ…こんな新年早々にウソついて!彩芽に文句言ってやる!」
私の独り言を聞いて、不意に疾風が私のほうを向き直った。疾風の眼には、いつも私が見ているのとは違う瞳の輝きが…輝きというよりは海の底の深さのような淀みが…あった。
「美寛…やっぱり、美寛は気がついてなかったか…」
「え?何に?」
疾風の押し殺した声に、思わず聞き返す。普段から疾風の声は落ち着いているけど、こんな声を出すのは私の前では珍しい。こんな声を聞くのは、疾風がいうところの「理不尽な大人」に反抗する時くらいだ。
「美寛、さっき彩芽を見ただろ?その…屋上で…」
最初は疾風のいう言葉の意味が分からなかった。だって私、屋上で誰かに出会った記憶なんてない。私は、屋上にでてから疾風と埃を払いあって、校舎側の出入り口にいこうとして、死体を見て気を失った。少なくとも私は、疾風以外の人間に会っているはずは…。
「あ」
思わず声が漏れる。そうだ、私は見ていた。というか、それしか見ていない。
「それじゃあ、まさか…あの時扉の前に倒れていた子が…?」
「ああ、あれが…彩芽だった」
私はまた気が遠くなりそうになった。ウソだ。あれが彩芽だったなんて。それとは別に、私は別の自分に気がついていた。私たちは普段、死から隔離されている。推理小説やニュースで誰かの死を知っても、それを自分とは遠くかけ離れた世界での出来事だとしか認識しない。おとぎ話でもそうだ。グリム童話の真のストーリーを知った時、すごく怖くなった。それらの童話が書かれてから現代に至るまでに、私たちの世界と「死」の世界はどんどんかけ離れていく。だから、こうして急に死を身近に感じてしまうと、途端に怖くなる。逃げ出したくなる。自分に抗体がないからだ。今の私の中には「死と向き合う自分」と「死と向き合えない自分」がいる…。私の中で、その構図が分かり始めていた時だった。それらよりももっとずっと強い気持ちが、ふと湧き上がってきた。
「私…許さないよ…許せないよ…」
「どうした、美寛?」
疾風は少し怪訝そうな顔をしている。
「だって、そうじゃない!大事な友達があんな死に方をして、黙っていられるわけないじゃない!!私、絶対に見つけ出してやるから…彩芽をあんな目に遭わせたヤツ…!!」
疾風が私のすぐ側まで寄ってきた。そして、私の頭を撫でてくれる。普段だったら私の髪をくしゃくしゃにするのに、今日はすごく優しい。切実にいたわってくれているのが分かって、ヘンな気持ちになった。
「美寛の気持ちはよく分かるよ…俺だって同じ気持ちだから…」
「そう…そうだよ、ね…」
私は思わず、疾風に抱きつこうとした。でも疾風はそうさせてくれなかった。私の頭の上にのせていた手を、私のおでこにやって私を押しとどめた。私はおどけて、少し手をバタバタさせてみたりする。
「でも美寛?お前、前に言ってなかったか?すぐに感情的になる名探偵は嫌いだ、って。これくらいの事で人に抱きつこうとする名探偵なんていないと思うぞ」
それとこれとは話が違う。でも、結果的には疾風の行動が正しかった。この時、いきなり音楽室の扉が開いて誰かが入ってきたからだ。抱き合ってる姿なんて、誰かに見られて気持ちのいいものじゃない。
「あ、雪川さん!気がついたのね?」
あわてて私は扉の方を見た。疾風は疾風で、あわてて私のおでこにやっていた手を自分の腰の方に移した。扉のところに立っていたのは小沢木先生と白沢合歓だった。先生の名前は琴子。私なんかは、彼女の氏名からあるノベルスしか思い浮かばない。思わず「この高校の始業式ではスモークなんてたかれませんよ」とか言いたくなってしまうけど、そんな冗談が通じる人はあまりいないと思う。年齢は29歳。小柄で生徒と大して変わらないから親しみやすくて人気がある。本人いわく、「この歳にして独身」なのがすごく悩みのタネらしい。身長も150センチないくらいで、横に合歓が立っていることもあって、思わず生徒と先生を取り違えそうな気さえした。一方の合歓は身長も160センチくらいあってすらっとしている。ストレートの黒髪と少し厚めの眼鏡がいかにも図書委員らしいけど、それでも美人だという事はすぐに分かる。ただ、女の子受けのいい美人ではない。私のやっかみも含まれるけど。そういえば誰かが、「ねむねむは旧家のお嬢様だ」って言ってたっけ。確かに話し方がそれらしい。ここは聖真女学園や純徳女学園じゃないのに、とか、ついついいらない一言を付け加えてしまう。
「鏡野さんを見つけて倒れたと聞いたけど、もう大丈夫そうね」
小沢木先生の横から合歓がいう。軽い皮肉だ、とつい裏を考えたくもなる言い方だ。でも疾風はそれに気付いているのか、気付いてはいるけど無視しているのか分からないけど、それには何の反応も見せずに、小沢木先生に向かってこう言っただけだった。
「ああ、先生。ここ、使わせてもらってありがとうございます。俺は、今から雪川を家まで送りますから」
そう言いながら、疾風は私をせきたてた。たぶん、これ以上一緒に音楽室にいたら、合歓に変な誤解をされるという意味もあるのだろう。私も何も聞かずに、疾風と2人でそのまま学校を後にした。
帰り道、私と疾風はほとんど口をきかなかった。私が喋りたくない時に口を閉ざしてくれるのは、疾風のすごくいいところだ。私はただただ、今日の出来事を思い出していた。ああ、私がこんな事件に遭遇するなんて。それが一番素直な感想だった。今夜は眠る前に、P・D・ジェイムズでも読もうかな、なんて考えながら歩いていた。結局、疾風は遠回りをして、私の家の前まで一緒にいてくれた。疾風は「お前にまた倒れられたら嫌だからな」なんて言ってたけど、素直に嬉しかった。
不意に、また風が吹いた。もし私に風の色が分かったとしたら、それは間違いなく鈍色だったと思うような、重苦しい風だった。


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